この日、百万遍近くに名刺代わりの看板を出したので、こういうカテゴリをつくってみた。
大学の近くには、いろいろな社会運動への看板が設置してあるが、僕たちの集まりのものは、さしあたりなかったからだ。看板だけでは、自分たちがどういう集まりか、ということも説明しにくい。
この文章は、このブログに書いていることの母体となっている「反戦と生活のための表現解放行動」の責任文章ではなく、あくまでそこに参加する成瀬という一個人の考えである、ということを念頭においたうえで、読んでもらえると嬉しい。僕からの、一緒に運動をやろう、というお誘いの文章だ。

まずはじめに、この集まりについて。この集まりには、京都界隈に住んでいる、いろいろな大学生、大学院生、フリーター、正社員、その他の人間が集まっている。学生運動や労働運動というものが参加する人間の属性をある程度条件づけるのに対し、そうした決まりはない。
なぜ、集まっているかというと戦争に反対するためだ。ここで戦争とは、幅広い意味で使っている。軸となっているのは、アフガニスタンへの戦争、イラクへの戦争へと派兵を続ける日本の政府への批判である。いわゆる明確な戦時・非戦時の区別は採用していない。例えば、イラク戦争において、3月20日の開戦から、ブッシュが大規模戦闘終了宣言をしたのは、そのわずか二週間後の4月9日であったが、それから四年、現在のイラクを戦争が「終った」というようにわたしたちは捉えていない。自衛隊が派兵され、占領者の暴力が持続し、社会を根本的に変容させている。これらはアメリカによる、いわゆる「対テロ戦争」の一環であり、その意味で戦争は続いている。現在、対テロ戦争という課題は、米軍再編・集団的自衛権の行使を巡る問題など、日本という国家権力のありようを抜本的な変容を迫っている。この状況に対し、批判をする、というのが集まりの第一義的根拠だろう。
そうした集まりは、広い意味での政治団体に属すると言えない事もない。という曖昧な書き方をするのは、僕たちの集まりが、例えば他の批判的政治団体とは異質であるからだ。僕たちは、それぞれに目的ややりたいことをかかえ集っているが、メンバーシップなどかなりあいまいだ。組織と組織のメンバーを拘束する綱領のようなものも設けていない(綱領の例:日本共産党http://www.jcp.or.jp/jcp/Koryo/index.html)。そうした意味では、日本共産党やらほとんどの新左翼セクトに比べて、大いにユルい組織である。綱領を媒介した結合形態ではなく、人間関係が全面にでるため、いきおいサークル的要素は、それらの団体にくらべて強くなる。他のサークルやなんやと掛け持ちはほとんどの人間がしているが、個人参加が現在の基本的な形態となっている。

反戦と生活のための」

僕たちの名前、「反戦と生活のための表現解放行動」この、えらい長い名前について。先きにいったように、僕たちは戦争に反対するために集まっている。しかし、この戦争の問題をいかに把握するか、これは団体の性格規定とも関連するが、世界を統一的に把握する理論を共有していない人間にとって、想像力だけで補うのは難しい。個人レベルの想像力を、集団的な営みにするのは、困難だといっていい。そうして僕たちが話し合いのすえに「発見」したのは「生活」だった。
生活は誰にもある。この誰にでもある日常は、不変ではない。それは日々変化していくし、そこにはなんらかのかたちで世界の変容との関係がある。運動なんてやっても「どうせなにもかわらないよ」、そんな言葉を良く聞く。それは「自分の思う通りに」変わらないだけであって、世界が「かわらない」わけではない。世界は途方もない規模と速度で変容を遂げている。それが主観的なレベルで端的に現われているのは、この不安定化を深める労働状況と、それに伴う不安さだろう。不安定さは、なにもフリーターやパートといった時間雇用労働者だけにあらわれる問題ではない。資本を運用し、利潤をせしめる階層にとっても、不安定さは共通の課題である。いずれにしても不安定である、というところで、よりマシな不安定さへ向けて競争が始まる(実際には競争といってもスタートラインが圧倒的に不平等なのだけれど)。わたしたちは、この日常の課題から、戦争の問題を再構成し、批判する。

「表現解放行動」

表現解放行動。なにかわかるようなわからんような、名前である。いま、社会運動に参加しよう、と思う人ははっきり言って日本では数少ない。これにはいくつかのレベルでの問題があると思う。まず外部的な要因として問題なのは、国家権力・警察による社会運動への弾圧である。このブログでも何度かとりあげた立川テント村弾圧などはその最たる例であり、批判的行動に対する露骨かつ悪辣な言論封殺行動であった。これをわたしたちは批判する。そして、もう一つ重要なのは、日常的な人間関係における抑圧である。政治的な問題や、社会的な問題について人と議論をすることはヘンなことだ、とかそういう話をしていると浮く、とか良くて結局人ぞれぞれだよね、とか●●って熱いよね的な言い回しでそうした議論は空気を読まない扱いにされてしまう。どちらかというと、現在の日本における深刻な抑圧はこのレベルに存在するのではないかと僕は思っている。治安維持法があるわけでもない、共謀罪もまだない、そんな現状で、日常から浮き上がってしまうことへの恐怖が人間の批判能力を根本的に抑圧していると思う。
わたしたちの運動はそうした状況に対する批判でもある。まず「いいたいことを言う」「議論をする」「ものをつくる」「音を出す」「踊る」「歌う」etcこれらを総称して「表現」といい、それを自ら、自分達のものとしてとり戻していく運動である。取り戻すこと、それを集団的におこなうことを「解放」といっていると僕は思う。
僕たちは、中心的なドグマを設定して運動をしていない。そのため、ここでいう何をしたらいいか、とかは自分で一から考えて決める必要がある。そのため、ある意味しんどいし、ある意味楽しい。組織的には脆弱であるが、そこには創意にもとづく個々の協力と共同が芽生えうる。また、わたしたちはより良い社会システムについての提言をおこなう集団ではない。このことははっきりとしていると思われる。問題提起をおこない、ある課題を一部の人間(政治家・官僚・専門家)に独占させることなく、共通の課題として設定すること。言い換えれば、民主的な討論にさらすこと。それが僕たちのやることだろう。対案が作りたければ、民主党にでもはいればよいのだ。
僕たちは月に一度の例会と、その都度とる行動に応じて会議をおこなっている。集まっている人間は、それぞれ寄せ場・野宿者問題や沖縄の基地問題、民族問題、グローバリゼーション批判、新しいメディア作り、証言集会など様々な運動に参与する人間だ。そこで知り合ってまた新たな社会の矛盾へと出会うことができる。組織力が決める政治的力量やその他、どうしても物足りなくなったら、また別の政治運動へいくのもいい。それはどうしようもない。僕たちはいまの社会に不満がある。もし、あなたが不満をかかえていたとして、孤独だと思ったらそれは違う。自分で学ぼうとして、対立する意見に対しても政治的暴力をもって解決しようとせず、口だけではなく行動を求めている人に対して、僕たちは呼びかける。一緒に運動をしよう。それは、決して面白いことばかりではないかもしれないが、無駄なことではない、と思っている。


最後に、好きな言葉の一つを引用する。
19世紀末、ナロードニキとよばれる青年たちが大きな影響を受けた本の一つがラブロフによる『歴史書簡』であったという。その第8書簡より。
「重要なのは、誰が勝ったかではない。重要なのは何が勝ったかである。」