6月13日京都、ファシストたちのデモによせて

私は、2009年6月13日に京都市中心部で行われた【ざいとくかい】のデモを見てしまった。この表現で伝わるかどうかはわからないが、正直いうと「きもちわるい」「怖い」行列だった。「外国人参政権反対」という意思表示のデモらしかったが、プラカードに書かれている文言は、在日朝鮮人と韓国人に対する蔑視に満ちた暴言だった。この記事では【ざいとくかい】の一つ一つの主張を分析するよりも、私が感じた個人的な感想を書きたい。

自省もこめて書いていく。私は、「誰かをいじることで仲間と連帯する」ことはしたくない。人と人は様々なかたちでつながるし、様々なかたちで出会う。出会いやつながりの条件が「いじめ」ではありたくない。【ざいとくかい】のデモは、「韓国」や「朝鮮」に関係する人を蔑視することを条件に成り立った集団だった。多くの人は、時給なり残業なりセクハラなりパワハラなどなど、生きていく上で様々な条件を課され、しんどい思いをしていて、社会に不満を持っている。日常生活において、私たちの生きる権利が全うされている場面はとても少ない。しかし、社会への不満をスッキリさせる方法は、果たして自分よりも発言力のない人をたたくことによって得られる全能感にあるのだろうか。たしかに「自分が社会的に抑圧されている」という認識は、多くの人が持っているだろう。怒りたくなる気持ちも、多くの人が感じているだろう。しかし、その怒りの方向が、なぜ自分よりも発言力のない人へ向かうのだろうか?仕事がないのも、時給が安いのも、犯罪が起こるのも、外国人のせいなのだろうか?【ざいとくかい】の主張は、一見するととんでもない意見だが、排外主義が世界中にあることを見ると、このような言説を、人びとは結構すんなり信じてしまう。だから排外主義は怖い。しかし、むしろ、日本の企業が時給を安くするために、そして自分たちの儲けを出すために一人の人間としてではなく「安い労働者」として外国人労働者を雇い入れているのじゃないだろうか。昨年からの一連の不況で真っ先に首を切られ、景気の調整弁として使われたのは外国人労働者だ。怒るべき対象は、大企業や政府なのではないだろうか。外国人が加害者で自分が被害者であると妄想して、勝手に被害者感情を抱き、外国人に逆切れするなど、本当に馬鹿げたことだ。

「誰かをいじめることで仲間と連帯」しても、決して連帯できないと思う。いじめる側になることでいじめられる側から逃げ出しても、いつ自分がいじめられる側になるかわからないし、いつもびくびくしなければならないからだ。いじめることで得られる「不満すっきり」の全能感は、とても脆い。いじめや差別はどこの社会にでもあることで、それをなくすことは簡単ではない。しかし、自分がいじめる側になるのではなく、自分をいじめている大企業や政府に対し怒ることを通してでしか、「連帯」はできないと思う。

少子化時代を迎え、今後数百万人の「外国人」労働者」を迎え入れる必要が指摘されている今日、日本の「外国人」政策は、戦前以来の排外主義的発想を根本から転換するべき時期を迎えている。それは単に政府や自治体行政の問題ではなく、日本人の一人一人に、「外国人」が隣人として平等に生活できる新しい社会の一員として自己を再発明することが求められているのである。」(鵜飼哲、『主権のかなたへ』、岩波書店、2008、16頁)


他者の権利を守れない人に、自分の権利は守れない。私は、私たちの生きる権利を勝ち取るために、外国人いじめを条件としているこの日本社会を変えていきたい。その過程で、私も「自己を再発明」するきっかけを、誰かから与えられるだろうし、日本社会を変えていくとともに「自己を再発明」していきたいと思っている。

なお、【ざいとくかい】のデモに先立ち、お昼ごろに「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」のデモが行われた(反戦生活も賛同団体の一つである)。【ざいとくかい】のデモよりも多い約300名が集まった。そして【ざいとくかい】のデモ中には三条河原町河原町蛸薬師四条河原町で街頭宣伝を行った。それについては、実行委員会のホームページにて写真入りで報告されているので、参照してみてほしい。
http://613action.blog85.fc2.com/

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