対談「サウンドデモ」(首猛夫・矢場徹吾)

首:どーも首猛夫です。
矢場:矢場徹吾です。
首:われわれはなんでこんなペンネームなんですか。
矢場:自同律の不快とか、そういうことなんじゃないですか。
首:矢場さんは喋れるんですか。
矢場:そういうメタな話はやめましょうよ。
首:講談社から怒られませんか。
矢場:ごめんなさい。
首:そういうわけで首と矢場のベシャリコーナーを始めてみたんですけれども、飲みながらグダグダ喋ってるので、どう話が転ぶかわかりません。すみません。
矢場:これは紅霧島ですね。黒霧島は有名ですけど、紅があるとは知りませんでした。僕は芋焼酎は苦手なんですが、これはおいしいです。ええと、これもテープ起こしするんですか? 読んでる人にはどうでもいい情報ですね。
首:われわれの立場が赤か黒かをつまびらかにする情報になりうるわけですよね。
矢場:なりえませんよ。さっさと本題に入ります。今回のテーマは「サウンドデモ」について考えるということですけど、首さんはどう思いますか?
首:不真面目だという議論は毎回起こりますよね。
矢場:「歌ってレーニン踊ってマルクス」という戦略は昔からありましたよね。うたごえ運動。フォークゲリラとかもありましたけど。サウンドデモはそうした戦略とは違いますよね。
首:つながっているか分断されてるかというのは歴史観の問題ですね。僕はあんまり意識したことはないです。強いて言うなら、うたごえとフォークに共通するところは、人民が同じ歌を歌うことで連帯するというところに重きを置いた。海外の活動家と「インターナショナル」を歌うと面白いですね。歌詞はそれぞれの言葉であって、サビの「インターナショナル」という所だけピッタリ揃う。これはすごいことですよ。国際的に共有されてる文化があるというのは。
矢場:それはカルスタ的には批判の対象になるんですが。
首:そこでサウンドデモですよ。踊りたい人は踊ればいいし、歌いたければ歌ったらいい。主体の行動の自由が担保されてるわけです。だから面白い。
矢場:うーん。僕は「面白い」だけでは肯定的な総括はでけへんなと思うんです。
首:なんで? デモ申請の時に警察の人に「サウンドデモなんか不真面目だ」とか皮肉を言われたりしますよね。そういうこと?
矢場:それは僕は言われたことないですけど。僕がひっかかってる点はそこではないんです。サウンドデモって大音量を流しますよね。音楽の三要素ってありましたよね。和音、リズム、メロディーの三つです。これがデモの空間を支配してしまう。これがシュプレヒコールのリズムとは合わないことが多いんです。選曲はだいたいがDJ任せでしょ。果たしてそれって街を行き交う人たちにどれだけ伝わるのか。首さんは疑問に思ったことありませんか? 大阪の有象無象の人たちは「踊らされるな、自分で踊れ」っていうスローガンが掲げてましたね。でも踊れる音楽が流れるかどうかって、結局DJの選曲次第じゃないですか。それって実は結局シュプレヒコールの変化形の一つだと思うんですよ。
首:わかりにくい?
矢場:うん。僕はちゃんとシュプレヒコールするべきだと思う。シュプレヒコールは短い言葉で行きずりの人にわかることを言うでしょ。
首:軍隊みたいで嫌じゃありませんか。
矢場:それは組織論の話でしょ。僕が気になってるのはあくまでもデモのときのメッセージの発話の仕方なんです。警察にガンガン規制されまくって、そこまでしてサウンドデモに拘る必要があるのかと。
首:いやー。それは組織論と分けては考えられないんじゃないかな。シュプレヒコールっていうイディオムでは、例えばコーラーが「安保」と言ったらみんなは「粉砕」と言って、「闘争」と言ったら「勝利」と返す。そういう約束事が予め前提されてないと、コーラーが「シュプレヒコール」と言ったとき、「よし」って言い返すことができない。サウンドデモの場合、爆音でリズムが流れてて、その空間で何をしようが約束事がない。さっき僕が言った行動の自由が担保されてるってのはそういうことです。
矢場:音楽が鳴ってたら踊ればいいじゃんっていうのも一つのイディオムでしょう。音楽が鳴ってることで逆に「踊れない」人もいるんじゃないかと。
首:ああー。直接的なメッセージ性は薄まるというのは確かですね。でもそれはサウンドデモ文化が広がったら自然と身に付いてくるものじゃないんですか。
矢場:その考えは短絡的に過ぎますよ。ひとつのイディオムがあればそれによって排除されちゃう人がいる。それはシュプレヒコールでも音楽でも一緒です。僕が言いたいのは、サウンドデモに幻想を持ちすぎるのはよくないってことです。
首:幻想。
矢場:そう、幻想。確かに音楽はシュプレヒコールより抽象的なぶん裾野は広がるかもしれないけれど、意味は薄まるじゃない。そのリスクをおかしてでもサウンドデモをやる意味があるのかと、そこをこそ問うべきだ。
首:僕が始めてサウンドデモに遭遇したのは京都のイラク反戦の時なんだけれども、あのときの解放感はすごかった。途中参加者がどんどん増えていった。
矢場:京都で最初のサウンドデモといえば「海の日を火の海に」のとき?
首:当時サウンドデモって言葉はなかったです。いわゆるサウンドデモっていうのはDJとか音楽やってる人が自分達のスタイルで反戦のメッセージを伝えるってことから始まったわけでしょ。
矢場:だから音楽はテクノが多い。テクノのリズムに乗れない人は・・・
首:ああ。矢場さんはテクノ嫌いですか。
矢場:うーん。普段聴かないし。僕がDJやるときは普段自分の聴いてる音楽をかけます。
首:「秋の嵐」はパンクスの運動でしたよね。
矢場:そこ大事ですよ。主体が問われる。
首:ジャンルで?
矢場:そう。「ドツドツドツドツ」っていう四つ打ちのリズムで踊るのと「ええじゃないか、ええじゃないか、よいよいよいよい」で踊るのとでは決定的に意味が変わってくる。そこに差異が見いだせないならサウンドデモサウンドによるパフォーマティヴな発話をお前は本当に理解してるのかっていう話です。
首:僕はデモっていう空間で敢えて音が鳴ってるということに重きを置きたい。シュプレヒコールではなくて音楽が鳴っている。つまりそこでは踊らなくてもいいという選択肢だって担保されてるわけです。シュプレヒコールだと選択肢はないでしょう。
矢場:ああ、それは大事っぽい。ううん、いやでもそれだとデモに参加する意味あるの? 歩いてるだけやん、と思う。
首:僕の見解では(意味は)あると思います。
矢場:展開してください。
首:一人で主張できないから集まって主張するわけでしょ。メッセージはプラカードとか横断幕で補完すればいい。集まれば集まるほどいい。それには音楽が欲しい。
矢場:音楽は道具ですか。
首:極論になっちゃうけど、敢えて言うなら、道具です。メッセージの媒体だもの。メディアのヴァリアントは多い方がいい。
矢場:うーん。DJの立場からするとそれは違う気がします。僕はDJをやったことがあるんだけど、道具と言われると悲しいな。
首:そのこころは。
矢場:せっかく市場で(音楽が)商品みたいに消費される場所から離れて解放されると思ったら、結局みんなが求めてるのは商品としての音楽だった、みたいな。
首:物象化している?
矢場:スペクタクル化と言った方がいいかな。「インパクション」の162号、「闘走的音楽案内」のコーナーで二木進さんが「二分だけでいい、お前の噺をしてくれ」という文章を書いてます。二木さんは「ある関係性に閉じたからこそ、別の関係性を開くことができた」という表現をされてますね。「サウンドデモのスペクタクルやフォーマットに引っ張られて、「祝祭空間」ということばだけでお茶を濁していると、自分が無自覚に働かせている、ある種の排除の論理を見失うと思う。同じシーンにいようがいまいが「僕とあなたは違う」という自律性や他者性を根本から洗い直すことなしに、新しいアクティヴィズムは創造できない」。
首:確かに初期の頃はもっといろんな議論をしてたような気がしますね。
矢場:今ではサウンドデモって普通になっちゃってて、なぜデモに音楽が必要なのかを問い直すことを忘れてるんじゃないでしょうか。
首:音を出すのは簡単ですよね。トランジスタ・メガフォンの標準ジャックにiPodをつなげれば一人でサウンドデモができる。
矢場:私が開発しました。
首:開発したのはメーカーです。でもあれでいろいろ面白いこともできましたよね。共産党系のデモに飛び入りで参加して、大工哲弘の「インターナショナル」を鳴らした。最初の1分はドラムの音だけで何の曲かわからない。で「起て飢えたる者よ」と流れた瞬間、主催者の共産党の人がすごい剣幕で音を止めろと言ってきた(笑)。
矢場:運動の自主規制の問題ですね。「デモ申請の許可条件に違反してるのか」と尋ねたら、そんなもんじゃないと言われた。とにかくうるさいからやめろと。
首:音の大きさが問題だったの? それともインターが問題だったの? 共産党はインターナショナル歌わないの?
矢場:具体的には音を止めるか、さもなくば小さくしろということでしたよね。いちおう貫徹しました。共産党は独習指定文献からマルクスの「共産党宣言」とレーニンの「国家と革命」を外しましたよね。いや、独習指定文献の制度自体がなくなったんだっけ。
首:共産党員が「共産党宣言」を読まない?
矢場:「宣言」も「国革」も暴力革命論ですから。二段階革命論ならよかったんだろうけど。
首:「日本共産党宣言」。
矢場:「国家と二段階革命」。
首:運動の過程で暴力の問題をどう扱うかっていう話は別の機会にやりましょう。
矢場:サウンドデモは非暴力直接行動ですよ。
首:自主規制されたってことは、規制した人の内面で、非暴力であるはずの音が暴力それ自体と結びついちゃったってことですよね。
矢場:インターにはその要素はありますね。
首:歴史的に?
矢場:そう。歴史的に。自分たちの運動をどうリプレゼントしたいのかっていう問題にも関わってきますけど。自主規制は問題外だけど、内省することは大切です。内省して、過去の歴史と現在の自分とをどういうふうに接続して位置づけるかを考える。デモのあり方に対して毎回そこまで議論できてるかと考えたとき、僕はそれは不足してると思う。
矢場・首:(歌う)どんな革命にも/必ず終わりはある/どんな演説にも/必ず終わりはある/信じる人も/夢見る人も/飲みすぎた人も/いつかは覚める/その日のために/鍛えておこう/君の心の全てを/挫折/屈折/変節/総括!(野坂昭如「終末のタンゴ」)