2005年8月15日、東京、靖国神社で行なわれた黙祷に対し、抗議を行なおうとした仲間たちが、地下鉄の駅から出ようとした瞬間に、警察は阻止線をはって阻み、抗議の声をあげた仲間4名を逮捕したのだ。この予防弾圧とも呼べる、なりふり構わぬ権力による圧殺を、メディアは「過激派」による行動として報道し、その不当性を隠蔽しようとしている。
彼ら、彼女らの行動は過激だっただろうか?私たちは、彼ら、彼女らが「過激」か「過激」ではないか、といった二分法を、敢然と拒否する。そして、それこそが、全体主義に抵抗した(あるいはできなかった)民衆の歴史に学ぶ道であると考える。

8月26日現在、仲間全員の釈放が判明したが、これで終わりではない。「参拝は個人の自由」だが、「参拝反対の声を上げる」のは自由ではない。ないどころかそっこう逮捕なのだ。
アジアの数多くの人たちが、日本が侵略的態度でもって対しはじめた日本近代100年以上もの間,いったい何度「反日」の声をあげてきただろうか?自衛軍を保持し海外派兵のできる国家へと変貌を遂げようとし、さらなる死者=新たな「英霊」を量産しようとしているこの現在の日本において、先の戦争が侵略戦争であったことを否定し、逆に賛美すら公然とおこなう靖国神社は、生者を戦死に駆り立てる装置として機能しはじめている。私たちは京都で、この国家による殺人賛美装置=靖国神社へと抗議の声をあげたが、同時に靖国現地で直接に声をあげた仲間たちが、なぜこれほどの大弾圧をうけなければならなかったのか?ここにはアフガニスタンイラクへとなし崩し的に派兵を続け、管理・監視体制を強化し、さらなる派兵国家化を押し進めようとしている、国家権力の意思が貫徹している。繰り返される右翼による暴力、そしてこの国家権力の弾圧、これらは靖国神社に対する一切の批判を封殺するべく機能する、ファシズムという名の牙の下顎と上顎である。

「いいかげんにしろ!」私たちは抗議する。
私たちはこれらの事すべてに対してうるさく騒ぎたてる。
決して沈黙しない事を!
反戦反政府行動