ウトロ(UTORO)強制執行反対集会に参加した日 成瀬


今日は京都府は宇治、ウトロ地区*1において開催された「9.25強制執行阻止!緊急抗議集会」に参加してきた。つい二週間程前に、二日後の27日に強制執行が行なわれるとの報をうけ、それ以来気になってしょうがなかった。後述の理由により、なんとか27日の強制執行は回避されたようであり、この日の集会は、強い日差しの中、多くの参加者を得て開催された。写真はその会場に設けられたステージである。


 今回もそうだが、西日本殖産と現在の登記者である井上某との間に発生している係争*2が11月9日に大阪高裁にて係争中であるという。これにより確定した登記者が申請する限り、絶対に法的には覆すことが出来ない地点にウトロ強制執行の問題はある。今回の経緯を簡単に要約しておくと、まず8月22日に現登記簿上の土地所有者である井上某が京都地方裁判所に対して空き家一軒の強制執行を申し立てをおこなった。8月30日には京都地裁の執行官20名が上記物件に告示書を張り出した。そうした動きをうけて9月10日ウトロ町内会では緊急住民集会が開催され、空き家とはいえ、ウトロの街への強制執行は絶対に許さないことを決議、25日の集会27日の阻止行動を決定し、広範な呼びかけが始まった。沢山の団体により嘆願書、声明が提出されたが、9月22日、井上某と所有権を巡って係争中の西日本殖産からの異議申し立てをうけ、大阪地裁が受理したことにより27日の強制執行は中止されることになった。
 今回の集会でも、韓国から来日したKIN(Korea International Network)*3のメンバーをはじめ、沢山のアピールをした人々が、これが歴史の問題であり、良心の問題であると指摘していた。現行法において、これら歴史、ならびに良心の介在する余地はないのか?それでは私たち、一人一人の生活においてそれは存在する余地はないものなのか?そんなことはないはずだ。
 今回の強制執行延長に安心することなく、これからどんなことができるだろうか、そしてどういう論理で?ということを真剣に話し合って行かなくてはいけないだろう。集会終了後には、座り込みのシュミレーションを行ない、細い路地を十メートルかそこらはウトロ住民を先頭とした集会参加者が埋めた。しかし、私たちはまさに戦後の諸運動においてなりふり構わぬ権力がいかに粗暴かつ強大かということを知っている。まだまだ力は足りないだろう。どうすればいい?
 私たちはこの間、私自身も含め、辺野古における基地建設阻止行動に多くの参加者を得た。そうした運動経験をいろいろ交差させていく必要がある。
 資本のグローバル化に対抗し、民衆の運動のグローバル化とかを考えるときに、自分の場合まず第一に日本植民地主義に対して徹底的に取り組むことが第一歩ではないのか、といつも思ってしまう。在日の学生たちもそれぞれの論理と立場から運動を展開しており、そうした彼/女らとの交流は厳しい緊張感を孕みながらも、楽しいものだ。今の日本社会ですでに、そしていつもともに生きているこうした主体との相互交流を抜きにして、いきなり「アジア」志向をうちだしたところで(東アジア共同体だって!?)、いったいどこで帝国主義アジア主義者と自らを区別するのか?僕は「反日デモ」などが巻き起こった時に、それをどう評価するか、などということよりもまず先に、そうしたことを共に議論する中国/韓国の人が自分の、そして自分の周りの運動にいないという、厳然たる事実をあらためて反省した。これはこれから反戦、反資本主義グローバリゼーションの闘いを続けていく上で絶対に向き合わないといけない課題だと思う。どうすれば、僕たちのような、大きい組織をもたない、普通の連中の集う運動体が交流をつくりだしていけるだろうか?すでにそうした試みを持っているところはあるだろうし、ほんともっと勉強しなくちゃいけないな。
 読んでくれているみなさん、またウトロに集う機会があると思うし、その時はぜひぜひ集まろう!

*1:京都府宇治市にある地域の名前。「ウトロを守る会」のウェブサイトはこちら→ http://www02.so-net.ne.jp/~utoro/1938年、国内五カ所に飛行場と乗員養成施設を設置する構想が立ち上がり、そのうちの一つが現在は大久保駐屯地となっているこの地域周辺である。40年に京都府により買収され、日本国際航空工業により所有権登記が行なわれた。ちなみに、この日本国際航空工業の前身は国際工業という会社であり、その社長津田信吾は鐘淵紡績の経営資本家にして石原莞爾との交流もあったという、A級戦犯指定容疑者である。京都飛行場はその完成を迎える前に終戦を迎えた。この飛行場建設のために動員された数多くの朝鮮人により形成されたコミュニティーが現在のウトロの前身である。戦後直後には帰国者への中継基地/情報センターとして、民族運動の拠点としても機能していたようだ。戦後、それぞれの事情に基づいてこの地に定住を決めた人たちが街をつくり、行政の補助などをほとんどまったく受けないままに60年が経過した。生活インフラにおいても、極めて不十分なレベルに置かれているウトロの現状を見れば、まともに在日を人間扱いしてこなかった、まさに日本人のための行政「地域」が具体的に浮かび上がってくるはずだ。そしてウトロ住民たちが土地の所有権というレベルから完全に排除されたかたちで、ウトロという「土地」は日本国際航空工業から紆余曲折を経て、朝鮮戦争による「特需」で復活した日産資本傘下の日産車体日産車体から西日本殖産へと「所有者」が移り変わってきていたのだ。参考『ウトロ 置き去りにされた街』『共同研究 転向下巻』

*2:ウトロの土地は(有)西日本殖産が所有権をもち、土地立ち退き裁判を行ってきた。2003年12月井上某という人物が「即決和解」により2000万円で所有権を取得。2004年1月所有権移転登記。これに対し、西日本殖産が登記無効の訴えを起こし、現在大阪高裁で係争中。判決予定日、2005年11月9日。以上、集会配布資料から引用。

*3:公式サイト→http://www.kin.or.kr/右上に、ウトロの特集のページがあり、日本語でも読めるようになっている。わかりやすい。ウトロ国際対策会議のページは日本語表記にも対応しているし、映像などもある。