映画「パッチギ」を何日か前に友達と見てきた。
あまり長々と書くのもあれなので、もっとも論じたいところだけ。
在日朝鮮人の友人の葬儀の場で、主人公がいくつもの問いを投げかけられる。しかし、ここでは主人公の無知に問いの照準があわされているのではない。
かりに、すべての「お前は○○を知っているか?」の問いに対して即答できたとしても、つまり在日朝鮮人の歴史や現状についての知識があったとしても、それが、まったく回答になりはしないのだ、ということを、それと語らずに、しかしはっきりと示したところが、いくつかあるこの映画のいいところのうちの一つだと思う。
問いに対して正確にどれだけ答えられたとしても、それが答えにはなりはしない。
このシーンで、べたな言い回しかもしれないが、受験のようなQ&Aではない知の姿を浮き彫りにしたのだ。

「お前がそこにいる意味がわかるか?」

このような問い、結論としての回答を得ることができそうもなく、深く、広い問いとしていくつもの問いが発されている。糾弾の言葉としても、存在の意味が問われにくくなっている現在は、ほんとお寒い、魔法の解けてしまった世界だ!

補:冒頭のバス横転事件は1975年にあった実際の事件を参考にしていると知り合いにききました。
引っ越しのサカイのおっさんの登場とギャグに爆笑してしまった、、、、この映画を京都でみれて、結構ラッキーだと思う。
(その上で、ちゃんと歴史の勉強をすることはとっても大事だと思います)
成瀬書く