*[読書メモ] Revolution and Subjectivity in Postwar Japan 1996
「戦後日本における革命と主体性」というタイトルを持つこの本は、山之内靖氏をはじめ、日本の研究者とも活発に研究を展開している日本思想史研究者のビクター・コシュマン(J.Victor.Koschmann)氏によるもの。
最初は今はやりの68年本か、とタイトルをみて思っていたのだが、内容は1945年の敗戦から、日本共産党が民族民主革命路線を選び取るまでの期間、つまり50年代初頭までの、革命の主体を巡って展開された論争の紹介。
コシュマン氏は全体における論争を、詳しくそれぞれの当時展開された論点に入り込むとともに、現代の視点、とりわけLaclau&Mouffe(ラクラウとムフ)による「民主主義革命」理論と、ハーバーマスによる”imcomplete project of modernity”という考え方をしばしば援用しながら論争を読み解いていく。
日本共産党の民主主義革命路線の陥穽(人民戦線の必要性を訴えておきながら、結局「プロレタリアートの党」によるイニシアティブへの固執を捨てることができなかった)から、雑誌『近代文学』において展開された戦中世代と戦後世代の(芸術と政治、世代、主体)論争、マルクス主義者によるマルクス主義の「空隙(Lacuna)」との格闘(梅本克美、真下信一)、近代精神(大塚久雄、丸山真男)、民族主義(竹内好)にいたる道のりをコシュマン氏のリードとともに追っていく読書は、なれない英語でとっても大変、しかも時間がめちゃくちゃかかったけれども面白い経験だった(かっこ内はいずれも各章において論じられる主要な論者)。自分としては、そもそも論争それ自体しらないものが多かったので、それらの知らなかったものにふれることによる新鮮さ(?)もあった。
丸山真男と林健太郎による『世界』(1950年9月、10月号)での書見体での議論は、原文をみて今読む面白さを確認した。林が丸山に対して、なぜ民主主義の破壊者である共産主義者への弾圧を肯定しないのかとせまり、丸山が今の日本に守るほどの民主主義があるのか、むしろ近代民主主義の防衛の名の下に行われる諸政策における深刻な前近代への回帰というパラドックスをみろ、と切り返しているくだりは一読に値する。
僕は現在の日本の状況は、根底的な危機にあると考えている。とりわけ昨年は、立川ビラ入れ裁判、君が代不起立処分と、基本的人権の根幹に関わる弾圧がおこなわれた年であった。ことしも早々に卒業式にビラをまいた人間を逮捕するという事件が起きた。こうした事態がアフガン、イラクへの派兵と相補的に進行しているというこの状況こそが、戦後直後に行われたこれらの論争を再検討する意義を高める。私たちは今や、こうした状況に応ずべく運動を構築する必要がある。
その上で。民族民主革命路線の選択による、運動からの在日朝鮮人排除の問題は、自分の日本人としての立場性を抜きにして語ることはできないということをメモしておきたい。もちろんこの本には、一言もこの件については書いてない。
また、この本を読む上で、鶴見俊輔・久野収・藤田省三による『戦後日本の思想』1966は、良きガイドとしてとても役だった。この本自体も、いろいろな考え方のヒントが詰まっているいい本だ。
補:それにしても68年がきている。知の攻略シリーズ『1968』が先頃出版された。
内容に関しては一部を除いて読んでいないし、また読んだ一部は面白かったからいいとして、こりゃ編集の趣味かとも思うけど、オビのうたい文句「20世紀唯一の世界革命!」は、ほとんどそりゃ悪質な歴史修正主義だろとすら思ってしまう。見直すべきことがある、ちゅーのはわかるんだけど、そこまでいくと、ねぇ。
成瀬書く