*[映画メモ][マンガメモ]『ローレライ』と『夕凪の街/桜の国』

posada2005-03-11

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)前者の映画は役所"お役所工事"広司、妻夫木"つまづきそう"聡ら人気ベテラン若手俳優を多数配したおニューでオシャレな"大東亜"戦記もの。"技術立国ニッポン"を象徴すべく鬼畜米英を出し抜くとされる高性能な潜水艦とみすぼらしい観客群衆が羨望を抱くそのイカした才能ある乗組員のありえない活躍。そして幾多ある極右の相も変らぬ国家主義映画ではなく、文化覇権(=政治)を握りつつある一種のポストモダンな甘いオブラートが用意されている。

・・・「 愛 す る も の を 守 る た め に た た か う こ と 」

 ここにハイデガーの好奇心などの概念を再利用しつつP.ヴィルノらが論じるマルチチュードの両義性(転倒させ不意を突き続ける脱<帝国>か、失敗と狂気の後の(あるいは沈黙の)<帝国>への従属か)の一つの稜線たる表現がある。

 後者のマンガを見てみよう。信じよと純粋この上なく迫るこのテーゼに少しでも親和しないものがあるだろうか。家族愛、恋愛、愛、愛、そして愛(私は窒息死しそうだ!)。「それでも母親たちは子供を生み続ける。」(T.W.アドルノ)というわけだ。 インパクション145号174ページに最大限好意的な評があるが(江刺昭子「終りなき原爆被害を描いたコミック」)、N.G.フィンケルスタインと同じく謀略論を信じないが謀略の存在は信じる私は、作者「こうの史代」が原爆作家大田洋子をネタ元にするどころか(それならまだいい)悪夢のようにその人生を歪め、優れたルポ『夕凪の街と人と――一九五三年の実態』(1953)から痛恨悔苦のデビュー作の国策恋愛もの『桜の国』(1940)へと時計の針を逆様に巻き戻しし、悪質に弄んでいるかのように思える。あるいは「原爆を直接知らない世代がこういう作品を世に出す意義」と誰もが無条件に寿がねばならない錦の御旗を突きつけて文化的(=政治的)に旧左翼内部を腐蝕させるかのようだ。

 単純な私は救いはやはり精神分析(集団的、国家大的?)かと思う。そしてDCPRGを聴きながら主幹の菊地成孔(なるよし)の弁に頷くのだった;「しかし、我々のこのアルバムを聴いて踊る快楽と、ビフテキにナイフを入れ、フォークで刺してから口に放り込み、咀嚼して食べ終わり、食後にサンデーを食べる快楽が恐らく少なからず等しい物である可能性は、如何なる詭弁を弄しようと否定しきれない事だけは間違いない。…」

 反戦反政府というたくさんの鏡面から成るミラーボールにはこんなことを言う奴もまたいる。(その名はPegasuz)