占有あるいは占拠。公共を考える
この間、京都某所で路上文庫を開いた。
路上文庫っちゅーのは道端に特定のジャンル、個人的に発信したい本、チラシなどをおいて自由に見てもらい、語らう事を目的とした暇なときにやる行動である。詳しくはそのうち成瀬氏がリンク作ってくれるはず。
とはいえ街中にいきなり本などを広げても立ち止まってくれる人は少なく、あからさまに左翼っぽいおっちゃんとかがのぞきに来る程度だ。それでも二、三時間座っていると、それなりに反応があり面白い。
しかししばらくすると、呼んでもいないのに彼/彼女らがやってくる。ポリ公だ。
ポリは立ち止まり、完全にこちらを犯罪者を見るような目つきで眺め。何かとイチャモンをつけてくる。
スピーカーの音がうるさい、許可は取っているのか等がポリが文句を言うときの常套句である。
公共の空間のルールはその場にいる人達によって決めればいいやんけ、というのがぼくの持論だからポリは相手にしない、だが最近はビラまいただけでパクられたりポスティングだけで逮捕起訴ということをポリはやってくるのでこれからやろうとする人、とくに自民党とかその他有力党派、金持ち、右翼・保守と意見が合わない人は注意が必要だ。
公共の利益とか迷惑とか、何を根拠にしているのか全く不明な事が路上を活用しようとする我々に襲い掛かってくる。この野郎、もっと車椅子とか弱視の人とかが通れるようにしやがれ!目の前の違法駐車をなんとかしろ!とかいってみてもポリ・保守の頭の中には迷惑を訴える市民が勝手に住み着いていて、権力が無いものにたいしてわけのわからん排除を繰り返してくる。だが路上文庫は一人でもできるので、ヤツラがどーしようもできない・お手上げになるぐらいまで同時多発的に全国でのさばりまくれば、迷惑であるかないかは自分らで決める。ということが実現するのではないか。だから、全国の暇人たちは路上にのさばりまくれ!そこではポリ公・政府の言う「公共の利益」よりもバクーニンとかゆうおっさんが行った言葉「アンタの自由が私の自由を無限に拡大する」が重要になってくるだろう。多分
誰から見て公共なのか、だれからみて占有・占拠なのか。思うに一番不法占拠・占有を繰り返し、迷惑どころか人殺しに利用してんのは国家である。公共の利益なんて言葉が国家から出るとき、それは人殺しと環境破壊を伴ってくる。隙あらば占有し占拠し返さなければ、路上はこのままポリ公と飼い主たちのものである。まず誰のものでもないことをハッキリさせ、誰でも使えることを銘記しよう。まとまらんが以上。
ちろる