歴史の連続性について yamane

「自分たちは新しい世代である。自分たちのやっていること、やろうとしていることは、昔の運動とは関係ない。ヘルメットをかぶって角材を振り回していた時代とは違うのだ」

こんな陳腐な言葉をいったい何度聞かされたことだろう。自分自身を過去と切り離すのは簡単なことだ。それには過去を知ろうとしなければいい。過去との連続性を自覚しなければいい。歴史の経験を救いがたい愚行の連続として脇へ追いやってしまえばいい。ただそれだけで、主観的には、人間は歴史から一方的に自由になることができる。現在の高みに立って、過去の運動の過ちーー官僚主義に陥った左派政党や、内部ゲバルトーーを嘲笑うのは簡単なことだ。しかしこのような思考法は、「過去の植民地支配の日本がやったことは過ぎ去った遠い昔のことだ」とする思考法と、本質的に変わりがない。

いかに彼/彼女が主観的自由を獲得しようとも、客観的には、歴史的文脈・社会的環境から逃れることはできない。それは、嫌が応にも体制と運動との衝突の歴史(階級闘争の歴史という古典的な表現をしてもよい)が獲得してきた土壌の上で私たちは生活しているからである。私たちの運動も、過去の運動史の積み重ねの、延長線上に立っている。

なぜ日本の左翼運動は内ゲバを行わなければならなかったのか。なぜレーニンは中央集権的な組織論を構想しなければならなかったのか。なぜスターリンは粛正を行わなければならなかったのか。自分たちとはそんな運動とは無関係だと宣言するのではなく、その歴史を検証しその成果を現在の運動へと還元していく作業は、未だに左翼運動を継承する者への課題として残されたままになっている。こうした地道な検証作業を積み重ねることによってはじめて、過去の運動はヘーゲルのいうところの「阿呆の画廊」であることを止め、現在の運動の中に止揚されることになる。

過去の歴史と断絶した高みに立つよりも、地を這うような歴史の中に置くことを自分は選びたい。それは何度も何度も、数えきれないほど敗北を繰り返してきた運動の歴史を継承するということである。

・・・とまあ、こんなことを近頃ぼつぼつ考えている。残念ながら、地図のない道は、歩きながらでしか次の行き先に思いを巡らすことができないわけだけれども。