歴史の連続性について2 成瀬

一昨日、図書館で『内ゲバの論理』(埴谷雄高編、三一新書)を借りてきて読みました。
高橋和己がその冒頭の論文で、運動の権力を発動させるときに、第三者を立ち会わせることを提起していますが、こうした自分たちを批判的にみることができる「良き理解者」を得ることができる運動は、きわめて幸いだと思う。自分も、運動の中で「あーもう駄目かも」と思った時に、救われたのは、個人的なものですが、そうした人たちとのつながりだったと思う。
というのはさておき、自らが社会運動の文脈に連なることを考えるとき、一方で「内ゲバ」「内々ゲバ」の問題や「テロ」の問題を考えつつも、闘いの経験の中で生まれたある種の「喜び」を引き出してくることも重要ではないか、と思います。
単純にロマンチックな美化をすることは許されないけれども、一方で「敗北」としてしか記録されていない中に生成した、豊かな人間関係を記録することもまた、現在の状況においては決定的に重要ではないか、と思います。
成田空港反対闘争の歴史において、唯一物理的直接的国家暴力によってその家を奪われた、大木よねさんが、その宣言の中で、戦っている時が一番楽しかった、と言っているくだりがありました。
僕は、もちろん大木さん個人とはあったこともないけれども、市井の人々が抵抗の中で感じた生きている感覚みたいなものも掘り下げていきたいな、と思います。
現在の社会の主要な問題は、「個人化」という側面から考えていく必要があると思います。たった一度、一人だけのこの命が、逆説的に、集団的闘争の中において、鋭く輝いたことをやはり思い出す必要があるのではないか。現在の政策を貫徹するものの一つに、自分自身以外の存在に対する、理解の不可能さを土台とした「敵意」「悪意」を煽るものが見いだせる。
そうした意味で、やっぱり『三里塚アンドソイル』はおすすめ文献です(当事者の方からはもの申したいこともあるそうですが、、)。自分にとっても、三里塚の問題は、その暴力や分派のことしか伝え聞いていなかったけれど、この本で「農」を基軸として描かれた三里塚闘争を読み直して、また運動をしていることが好きになりました。また別の話しになりますが、「青い芝の会」の運動と思想に触れて考えたことも、いずれここで書きたいと思います。
社会運動に携わることが、ある種の「善意」や「自己満足」というかたちで理解されてしまう風潮がある中で、「それだけではない何か」を伝えられるようになりたい、と考えています。
漠然としてますが、今日はこの辺で。