ロシア国境警備隊による漁業労働者への発砲・殺害事件について

ひさびさに東京から帰ってきた。14日から東京にいっていたのだが、その行動の報告はまたおこないたい。帰ってきて、ひさびさにテレビを見ると、ロシア国境警備隊による発砲および漁業労働者の殺害事件が大きく報道されていた。
詳しくは知らないが、領海を侵犯していた、ということはおおむね事実のようだが、殺したらあかんやろ、と思う。この間の日ロによる漁業協定や、「北方領土」の問題についていろいろ言われているが、個別の事例としてこの殺害が道義的に正当化されるとは思わない。殺害の意志がなく事故であった、としてもだ。
しかし。ロシアという国家に対して道義性の観点からものをいう際には、自らの国家の道義性にも目をつぶってはいけないはずだ。「お前がいうか〜?」では筋は通せないのではないだろうか(圧倒的暴力をちらつかせる以外には)。考えること。
1.国内における警察官職務執行法の改正などによる、警官発砲事件の増加
このブログでも何回かとりあげてきたが、警察官による発砲事件は近年増加の一途を辿っている。あるブログでは、警官が発砲し重傷を負わせた際のネット掲示板の反響を保存している。
http://blog.goo.ne.jp/friendmoon/e/fe93671fbf8b054d448dbcc579f13b58
たとえば、象徴的なのが警官の発砲を擁護する発言として「テロの時代だから当然」というものがある。今回の事件に対して、そのようにコメントできるだろうか。
2.つい先日も起きていた日本警察による在日中国人研修生殺害
次のケースは、今年の六月、栃木県の警察官が在日中国人研修生を殺害したケース。中国大使館のサイトから。それほど詳しくわかるわけではない。

日本のメディアの報道によると、6月23日午後5時ごろ、栃木県鹿沼署の警察官がパトロール中、不審な行動をしていた二人の中国人風の男性を発見、職務質問しようとしたところ、二人が逃走し、その後のもみ合いで男性が抵抗し、また拳銃を奪おうとしたため、警察が発砲し、一人が腹部に命中され、搬送先の病院でまもなく死亡した。もう一人がその後逮捕された。
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/xsgxx/t259847.htm

さてはて。ネット上では、いかなる言説も親中・親露か反共・愛国の立場に腑分けしないと気が済まない勢力が一定いるのが前提なので、上記のようなことを書くのもどうかなーと思ったが、気になったので書いてみた。また、イギリスでの無実の犠牲者、デメネゼスくんにかんする投稿にもコメントを追加した(05年7月のもの)。今回のような事件がおこると、国境線の問題が大きくクローズアップされる。しかし、自分の抵抗線は、つねに国家権力と民衆との間にあることを思いつつ。 成瀬

追記:国家権力と民衆の間に抵抗線をひきたい、ということを書いた端からあれなんだけど、、、
書いた直後にメールをみていると、STOP THE WALL!実行委員会が「イスラエルヒズボラに、停戦の継続を求めよう! 緊急アクション」なる行動を呼びかけているのを見た(http://www.stopthewall.jp/)。読んだ時点でもうアクションは終わっていたのだが、とても脱力した。あの有名な「テロにも戦争にも反対」というスローガンにも辟易したが、今回のはさらにヒドいと感じる。なぜか。それは、ある意味僕自身の主張が、このスローガンと似ているところがあるからだ。
 この実行委員会は8月1日にイスラエルオルメルト首相に対する声明で、基本的にイスラエルレバノン侵攻を批判しつつも、「私たちはNGOとして、ヒズボラによるイスラエル市民へのロケット弾攻撃も非難し、ヒズボラが拘束しているイスラエル兵の即時釈放を訴えます。ヒズボラによるイスラエル北部の町や村へのロケット弾攻撃によって、7月12日から28日までの時点で4人の子どもを含む19人の民間人が殺され、数百人が負傷しています。私たちは、イスラエル市民の犠牲者に対しても、深い哀悼の意を表します」としている。ここでいうNGOとは、後にも述べる「市民」の代表者という意味で使われていると思われる。
 同日に開催されたキャンドル・ビジルでは「キャンドル・ライトを灯して、犠牲者への追悼とイスラエル政府への抗議を!」とあり、この時点でヒズボラ批判はスローガンに見えない。ということは、この二週間の間に、どっちもどっちであるという議論がなされて、上記のアクションの呼びかけになった、ということなのだろうか。僕はこのスローガンに対して、構造的な暴力の存在を捨象した、それこそ深刻な暴力性を感じるけれども、それは先に自分が書いた「国家権力と民衆の間」にくさびを撃ち込むことと、具体的にどこがどう違うのだろうか。
 ヒズボラは国家権力ではない。今回の一連のイスラエルの侵攻に対する抵抗の中で少し違う戦術もとられていると聞いたが、長期的に見た場合ヒズボラの闘いは、ある意味で自らを「国民的勢力」として確立させようとしてきたし、またそれに成功してきたところがある。従って、先ほどの国家権力と民衆という分節をおこなうならば、国家権力の側に近い位置にあるヒズボラによるイスラエル領内の民衆殺害も、原理的には自らのたてた軸に沿って批判されるべきであると考える(また、とりわけそうした攻撃の犠牲がパレスチナ系の人びとに集中しがちであるとも聞いた)。しかし、そうした原理的な権力=暴力への批判は、そうした権力自体が関係性の中に成立していることを踏まえた上での関係そのものへの批判と不可分である。そしてまた、この権力が成立する関係性と、「市民」もまた無縁ではありえない。「市民を巻き添えにする暴力の応酬をふたたび繰り返さないために」とあるが、ここでいう市民とは一体だれのことなのか。ヒズボラの兵士は「市民」ではないのか。戦争に巻き込まれるのはいやだけども、「勝つならいいや」とこの侵攻を容認しているイスラエルの人びとは当然「市民」だろう。理想的社会を目指す際に「市民」概念を持ち出すことは結構だと思うが、現状分析に持ち込むには、あまりにも現在の国家(準国家)=権力は市民社会なるものを独立に措定し、「市民」なる人が現実に存在するといってしまうことが欺瞞になってしまうほど、私たちの生を包摂しているのではないだろうか(他方、市民の現存性を否定するのに性急なあまり、理念としての市民概念の有する抵抗性を見落としてきたことはかつての自分の運動スタイルに対する自己批判としてある)。
 したがって、先の僕の主張もまた、民衆なるカテゴリーを現在すでに固定的に存在するものとして捉えるならば同じ類いの欺瞞に陥るだろう。それでは、この場合「民衆」とは誰なのか?世界市民であろうとすることと、自らを今すでに世界市民であると思ってしまうことの峻別は可能だろうか?
 これは言ってみれば解放に権力奪取が先行すると考える立場と、「いま・ここ」での解放が可能であるとする立場との対立の問題であるともいえる。理論上は「止揚」というマジカルワードがあるのでいいとして、それらが個別具体的な課題に対していかにありえるか、ということについて僕たちはまだまだ実践が足りないな、と思う。
 ある一方に対して沈黙をもって不問に処す方法が、それこそ長い間闘争を続けると、深刻な問題を引き起こすこともまた現在の私たちは経験的に知っている。だけども、このstopthewallみたいな物言いはしたくない。うーん、結局こっちのほうが長くなったぞ(未完)