天野正子『「生活者」とは誰か』

「生活者」とはだれか―自律的市民像の系譜 (中公新書)

「生活者」とはだれか―自律的市民像の系譜 (中公新書)

今日は、反戦生活界隈のみなさんにおすすめの本を紹介したいと思います。おすすめの理由は内容がいいことと、昔の文庫で安く手に入りやすいことです。僕はどっかの中古CD屋さんの100円均一ワゴンで購入しました。
僕自身の記憶にはほとんどないんだけど、80年代には「生活者」という言葉がはやったらしい。1996年に出版されたこの本は、「生活」という言葉にいろいろな人が込めてきた意味を戦中の三木清から現代の生活クラブにいたるまでの独自の系譜で捉えて語っている。
ここにちりばめられたいろいろな考え方は、僕たちが今を生きる上でも参考になるものばかりだ。
個人的には、後半部分、いわゆる「新しい社会運動」として言及されるべ平連、生活クラブよりも、戦後の混乱の中で構想された今和次郎(こん・わじろう)の生活文化論と、戦時体制の中で編み出された三木清の生活者論が面白かった。面白かった、と客観的に評価を下したというよりも、現在を生きる自分自身にとって、高度経済成長期以降の安定的成長期よりも、戦後直後の「カオス」状態や戦時国家統制下の状況における思想の方が、リアルだったということなんだろう。
内容に関して詳細な書評はできない。ので、わかりにくいかもしれないけどグッとくるところをちょっとだけ引用したい。三木清からはここ。

「芸術家が芸術作品をつくるのと同じように、我々は我々自身と我々の生活とを作るのである。すべての生活者は芸術家である」p.24

体制内にありつつファシズム、日本中心主義に対して批判的であろうとし続け、戦後直後に獄死した三木。ちょうど最近、米谷匡史さんによる三木の東亜連盟構想に関する論文なども読んでいたところだったので、それとあわせて興味深く読めた。
今和次郎の営みとしていくつかの事例が本書では紹介されているが、その中で目を引いたのが「生活学」の構想である。従来の生活研究が、労働力の再生産の立場からおこなわれていたのに対し、今の生活学では「娯楽、遊戯」という観点から総合的に生活を把握しようとするものである、とされる(本書p.65-6)。これも面白い。今は、労働、休養、娯楽、教養という生活領域を設定し、それぞれに固有の意義をみとめ、とくに娯楽と教養の視点から生活を捉えようとしたのだ。
「今にとって、民主主義は(・・・)「論ずる」ものではなく、生活の「革命」そのものを意味する」p.59という。今自身の言葉を引いておこう。

われわれはいま、本腰を据えて生活革命にかからなければならないはめに直面した。それがなされることなしに、いくら政治機構が整ったとしても、政治と生活とが一体のものになりきるのでなければ、望ましい世界は、生命あるものとして芽ばえてはこない。政治と生活と、外面的なものと内面的なものとが、同じ観念で、同じ調子で整えられるのでなければ、さらに新しい卑屈と、さらに新しい矛盾とがきたされるばかりと思えるからである。p.59

以上に面白かった点を部分的に引用したが、本書の良さはたんに紹介されている個々の素材が面白いだけでなく、筆者自身がこれまでの思想的系譜をふまえて述べている自説の部分もとても良いのだ。僕が一番いいと思ったのは、82ページからの「「ひとびと」とはだれか」というところだ。「人々」ではなく「ひとびと」。「人民」「大衆」「プロレタリア」ではなく「ひとびと」・・・・。以下は思想の科学の営みの記述でありながら、筆者天野氏自身の芯に据えられた主張のようでもある。

「人民」「人民大衆」「大衆」などの言葉は、社会変革の主体、社会主義革命の担い手としての「階級」概念と重なりあうものとして使われた。これに対して「ひとびと」という言葉は、集合表象としての階級概念に安易に還元されることを拒むものであった。どうすれば自分はより「幸福」になれるのか、ひとり一人が自分の生活のなかから自分なりの考えを導き出していく。それは、集団へと一体化されることのない個別的な経験の質の大切さを意味する。p.84

細かい所でつついてみるとすれば、「昭和史」批判に関して、亀井勝一郎の批判を留保抜きで採録しているのは甘すぎる(p.101)。
とはいえ、全体的に平易な表現であり、かつ大事なことを主張している本だと思います。また読まれた人がいたら感想交換などしたいですね。 
成瀬