経済危機は誰にとって「チャンス」なのか

サパタです。リーマンブラザーズ証券の破綻を期に、世界的恐慌の可能性が叫ばれている。これは自分らにとって「危機」なのか「チャンス」なのか。結局なんなのか考えてみたい。結論に行く前にまずひとつ言いたいのは、今エリート達が緊急事態だ!なんだと騒いで、自分らのお金をその損失の穴埋めに使おうとしていることだ。手前らで作った問題のつけは手前らで払えといいたい。
結局90年代後半以降が典型的だが、アジア通貨危機、ニューエコノミー*1・ITバブル、住宅バブル、原油穀物バブルと世界中で投機マネーがバブルを作り続けてきたがそれが限界に達して一気にその矛盾が噴出したのがいまの状況だ。
このバブルはとてつもない錬金術で、実際期待だけで巨額の富を作り上げられ、富裕層がそれを吸いあげた。さらに個人の貯蓄を投資にまわすよう推奨し危険な投資に誘導することで、資産価格の上昇を生み出した。株式や債券は常に上がり続けるという期待でのみ過剰に膨張を続けてきたのだ。今その個人投資家はどうなったか。なけなしの老後の蓄えや、年金の積み立て、子供の教育費のための貯金が吹っ飛び大きな損失を抱えている。(そもそも教育費、医療費がタダ、充実した年金=生存が保障されていれば、だれも大きな貯蓄をする必要はない)
これは結局、世界大で行われた壮大なマルチ商法なのだ。この10年間世界中で破廉恥なほど利益を得てきた富裕層にこの問題の責任を果たせることがまず重要だ。(例えばアメリカ国内で具体的な提案を行っているマイケル・ムーアのプランを参照http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10148000074.html
しかしこの出来事が資本主義の限界を示し、新たな経済システムへのひとつの転機になるのではないかと期待する向きもあるだろう。前にも書いたが資本主義にとって「危機をチャンスに変えろ」が合言葉なのである。不況期には安くなった企業を買収して、巨大な企業グループが生まれてきた。ユニクロ社長柳井が世界的な株安について「M&A(企業合併・買収)を行うには非常にいいタイミングだ」と語ったのが典型的だ(朝日http://www.asahi.com/business/update/1009/TKY200810090272.html)また独占禁止法が形骸化し、合併による巨大なメガバンクの誕生が次々に容認されている。(バンク・オブ・アメリカメリルリンチワコビアウェルズ・ファーゴ、自動車大手ではGMとクライスラーの合併がとり立たされている)
そして皮肉なことに非常事態を叫び新たな金融緩和政策を逆に導入するというのだ。日本では自社株の保有制限の緩和、韓国では企業の銀行株保有規制が撤廃された。
(日本毎日http://mainichi.jp/life/money/news/20081011ddm001020037000c.html 韓国http://www.labornetjp.org/labornet/worldnews/korea/knews/00_2008/1223992366123Staff
さらに証券税制の20%から10%への減税の延長を、与野党の政治家が要求しているのである。この減税が不労所得で得た利益が労働所得の税金より低くし、そしてマネーゲームを優遇している象徴にもかかわらず。(赤旗http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-10-19/2008101902_02_0.html
つまり不況期に歴史的に利益を得てきたのは資本家たちなのだ。(デビット・クレーバー「新自由主義」より)
といって悲観的になることもない。資本主義は勝手に自壊しないが、金融危機を契機に確かに、持たざるものから莫大な富を取り上げる不公正な資本主義に対して、自由、平等を求めてこれまでとは違う複数の世界をもとめる人々の運動・意識が台頭しているのである。
示唆的なのがネグリの危機論の捕らえ方である。「危機がその原因と出会うのは、国際的なサイクルではなく、新自由主義に対する労働者のグローバルな反乱のあるときであるというのは偽りである。というようり危機は確かにサイクルであり、労働者の闘争の後でも、前でもなく、まさにその只中にそして闘争に決定されるものとしてあるのである。」(アントニオ・ネグリ、ジュゼッペ・コッコ「GlobAL」Paidos,2006 p60)*2
つまり危機は国際的サイクルであり、危機を「危機」として出現させ、私たちのチャンスにするためには人々の闘争が必要とされていることを強調するのである。
歴史を紐解けば世界経済の「フォーディズム体制」、「福祉国家体制」への移行を象徴するのが世界恐慌期のアメリカである。そしてニューディールと言われる一連の政策を強いたのは、これまで組織されることもなく劣悪な労働条件の中社会の片隅に追いやられていた非熟練労働者の劇的な闘争の噴出であった。それはアメリカ資本主義の「危機」そのものを意味した。それへの対応として労働組合の権利を初めて体系的に認めた、36年の労働関係調整法の制定、38年には非熟練労働者中心の組合CIOの結成、GMクライスラーに初めて労働協約を認めさせたシット・イン闘争などアメリカ労働運動史のハイライトが生まれた。さらにルーズベルトがこれまでの権利概念とは異質の「欠乏・困窮からの自由」=生存権自由権の要素として上げるというパラダイム変換が起こったのである。その過程と平行して、世界中で高まる植民地解放闘争の中で「古典的帝国主義」から「フォーディズム体制」への移行がしいられた。
さらに思い出したいのが70年代のドル・石油危機である。高度経済成長の終焉と資源ナショナリズムの高揚により、利潤率の低下と「フォーディズム的蓄積体制」の限界に付き合った。そのとき始まった新たなプロジェクトこそ「新自由主義グローバリゼーション」であった。それは60年代後半〜70年代の諸闘争とその資本主義の危機との抗争の中で生じた。
闘争が「管理社会」への異議申し立て、労働の自律性、フレキシビリティへの欲望を武器に革命的力として活用しようとしたとき、それを資本は非正規雇用・不安定雇用として反革命的にポストフォーディズム体制に組み込んだのである。(パオロ・ヴィルノ「君は反革命をおぼえているか?」(酒井隆史訳、『 現代思想』1997年5月号)
このような歴史から分かるのは、世界的な経済危機はそれを「チャンス」に転嫁しようとする資本と社会的闘争の間の緊張関係の表現なのである。そして現在史の抗争のターニングポイントに私たちがいるということだ。


* 1当時流行した、IT、バイオなど新技術の導入で、アメリカ経済は不況を経験しないで成長を続けるという、「新しい経済」に突入したという主張。ITバブルの崩壊でそれが虚構であることが暴かれた。
* 2マルクスが一時期考えていた、恐慌から資本主義が崩壊に至るといった考えや、後の全般的危機論が今でも現存していることへの批判である。ネグリ資本論読解を通じて労働者の「生きている労働力」、マルチチュ−ドの「協同とネットワーク、コミュニケーショ」にこそ、資本主義、帝国から自律してあらたな社会を構成する力があることを見出した。