長文「総理の自宅1952」成瀬謙介

前口上
2008年某月某日、時の総理大臣麻生氏の自宅に伺う「ツアー」を企てた人びとのうち3名が、警察のでっちあげの末にその場で逮捕された。さてこの「ツアー」に対して非常識だとか、首相の家におしかけたら逮捕されてアタリマエだという非難をぶつける人びとも多かったわけで。で、それらをネット右翼だとカテゴライズする人もまた多いわけですが、あんまし意味ないと僕は思います。本気でそう思っているひと、というのも中にはいるわけで。自分としてもこういうことが過去にあった、というのは驚きだったし、書いておきたいと思います。まぁもう三人は釈放されているし、あんまり関心を呼ばないのかも知れないけど、ね。

本文
 処は日本、時は1951年年末。第三次ワンマン吉田茂政権は、翌年5月に発効する「片面講和」と批判されたサンフランシスコ講和条約の締結をうけ、脱占領のための社会再編を試みていた。そこで大きな課題となったのが、旧日本軍戦没者の遺族問題である。
1951年10月6日、『朝日新聞』の見出しは「遺家族傷病兵援護に本腰」とあり、来月から遺族の現状調査をはじめることを報じている。「なお同日の閣議で十八日行われる靖国神社例大祭には吉田首相も参拝することに決まった」。当時、遺家族世帯170万、傷病者17万名。戦後においては、「総司令部から特別待遇を禁止されていた」ので、一般生活保護の枠組みで遺族は遇されていたとされている(この点は地域レベルで実証することが必要である)。そのころは橋本厚相は以下のような見解を記者に告げている。「一、戦傷軍人の強制割当雇用を実施する…これに対しては閣内でも、傷病者の中に赤化分子が相当にいることなどの理由から反対論もある。…一、遺家族に対して年金を支給する。−この年金は戦没者の階級、在職年数は考慮しないで、国家補償という面に重点を置く。」この談話からもわかる通り、遺族問題においてまず重要なことは就職など生活の問題であった。家計の中心となる労働力を奪われた遺族たちの要求は切実であった。
 以下の記事見出しは当時の日本政府内部においてかなりの対立があったことを端的に示している。
「遺家族援護に両論対立 近く閣議で最後の断 折合わぬ“階級別”復活」(『朝日』1951.11.22)恩給局(軍人恩給復活論)と厚生省(戦没者の階級、在職年数などは一切考慮しないで遺族の生活保護的要素に重点をおく)の対立が強く存在したのである。
そうした対立は、「遺家族援護の良案 閣僚懇談会で結論出ず」(『朝日』1951.12.14)とあるように根深いものであった。1951年12月15日、ついに首相自らこの当事者と話し合うことになった。「“希望にそいたい”首相 遺族代表と初会見」。「全国遺家族連盟会長角山哲四郎、日本遺族厚生連盟常務理事藤田美栄氏ら五名の代表は十四日午後三時半外相官邸で焼く二十分間にわたって吉田首相と会見した。」(『朝日』1951.12.15)ちなみに遺族の要求は当然、厚生省案である。ちなみに当時の厚相は橋本龍伍(もちろんあの橋本で龍太郎な人の父親)である。

戦没者遺族への年金問題がとりあげられて2ヶ月、「社説」が当時の論点を簡潔に要約している。今日においてもなお問題となっている「外地徴用工」問題もすでに触れられていたことは注目に値しよう。以下、長くなるが引用する。

『朝日』1951.12.17「社説 戦争犠牲者の援護対策」
傷痍軍人や遺家族など戦争犠牲者にたいする援護は明年四月より実施されることになったがこれに関する予算額ならびに援護方法をいかにするかは、政府にとって極めて困難な政治問題となっている。すでに国内的には、これら犠牲者にたいし大きな期待を抱かせており、しかも対外的には賠償問題とからみ合っているのであるから、政府の対策如何は、内外の大きな反響を呼び起こすおそれが多分にある。…この両案の具体的な運用の場合について考えると、まず第一は老兵の場合である。老兵は厚生省案では援護の対象にならぬが、恩給局案では、この老兵が救われる。すでに文官については、追放解除になったもの、例えば特高関係などその他戦犯的性格が強かった人人についても、恩給が与えられているのであるから、ひとり軍人のみを除外する点について問題が残ってくることになる。つぎに軍属について見れば、恩給局案では判任官以上は救われるが、雇用人として軍の仕事に従事していたものは除外される。厚生省案ではこれらの雇用人も対象となる。/ さらに戦争犠牲者の線をどこでひくかが問題であって、例えば軍直営工場、または軍管理工場で徴用工として働いていた者はどう扱うべきか。また徴用船員はいかにすべきか。徴用工には共済組合あるいは厚生年金保険などでわずかながら支給があるが、外地の徴用工には何ら救護措置が講ぜられていない。徴用船員は船員保険法が適用されているが、これもわずかな金額である。その他一般戦災者引揚者などももちろん戦争犠牲者ではあるが、どこかで限定せねばならぬこととなろう。」


さて、年明け、いよいよ「独立」の年であるが、橋本厚相案はあえなく内閣で敗北した。これは恩給局との対立よりも大蔵省により予算がまったく割り当てられなかったということが原因である*1。そのあとがこの橋本の政治家として面白いところであるが、吉田に辞表をたたきつけたのである。

「根本観念の相違 橋本氏声明」
「厚相を辞任した橋本龍伍氏は十八日午後要旨次の声明を発表した。/私の提議した案は、単に予算の面からだけ見るならば、大蔵省案との相違は約八十億円であって財政的にも措置が可能であり、また一部に心配されている賠償交渉への影響も五十歩百歩というべきである。しかし、両案の重大な相違点は単なる金額の問題ではなくして根本観念の相違にある。祖国の前途を憂え国民の幸福を考えるならば、金の切盛りに政策をいっさいゆだねてしまうことは出来ない。財政上の考慮からして最低限になることはやむを得ないが、しかし根本観念において戦死者の妻や子、老父母などに対して戦死者に代って扶養の責任を果すことはまた傷痍軍人をしてその日の生活に窮せしめぬことは、いやしくも独立国家たる限り、その第一日から国家の果すべき最小限の義務でなければならぬ。/ 戦死者の遺族に対し単に「お燈明料程度」を支給してもって足れりとするが如き態度をもって、如何にして今後の民生、民心を安定せしめ如何にして祖国の防衛を全うすることが出来るであろうか。/私は、今後も一自由党員として所信の実現に努力する。」『朝日』1952.1.19


橋本という人のイデオロギー面においては、僕個人としては違うところが多すぎるとはいえ、政治というものが国家と人民の結合関係をいかに構想し行動するかということに一面では要約できるのであってみれば、この部分に政治における保守的な意味での正論が展開されていることはわかる*2。こうした内閣の決定をうけ、当然遺族は激高した。

戦没者遺族大会ひらく “橋本は反対したぞ”起る怒号 吉田首相らへ陳情団」(『朝日』1952.1.20)
政治家としての橋本の求心力が激増していることは遺族の怒号からも伺える。そしてここからが僕がこの長文を書いている動機にもっとも重なるところなのであるが、怒った遺族は吉田首相の自宅(大磯)に押しかけるのである。

「遺族に冷い大磯の夜風 “吉田さんもあんまり” 会見拒まれ代表座込み」『朝日』1952.1.21
「二十日の全国戦没者遺族大会は閉会後、首相らに陳情団を送ったが、大会の宣言、決議を携えた大磯陳情組二百名は、二十日午後四時四十五分五台のバスを連ねて吉田首相の私邸へ乗付けた。佐藤信代表が首相の護衛、警視庁坪井警部を通じて面会を申出たが首相は「大変ご苦労だが静養しているので東京の官房長官と打合せてもらいたい」と突っぱね、婦人代表の近藤頼子さん(三〇)は「私たちは謙虚な気持で八百万遺族を代表して来ているのだから首相も同じ国民になって会ってくれ」と強く頼んだがやはり容れられず百七十名は直ちにバス五台に分乗して東京に引返し官房長官に対し首相との会見方を交渉することになり、残る三十名は門前でたき火をたき座込みを開始、官房長官との会見結果を待つことになった。…大磯地区署では付近の二署と国警神奈川警察学校から約七十名の応援を得て警戒に当った。」

200人が5台のバスにのって首相の自宅に押しかけたのである。さらにそのまま30人は門前で火を炊き座り込みを開始している。これが1952年の政治空間であった。

続けて同記事から。

小見出し=引用者)「ものもらいのような仕打ち」
「大磯の夜風にふるえる戦没者の老父母や妻子たちは、見かねた地元民のたき火サービスをうけながら「こんなはずではなかった。しかし私たちは遺族らしく振舞いましょう」となだめ合い、大分県津久見市中田区洋裁教師疋田房子さん(二九)は夫のわすれがたみ和徳君(八)の手をひいて「首相は私たちをものもらいのように思っているのでしょうか、七年ぶりに与えられる国の援護が金のことは別問題としてもこんな冷たいものだったのでしょうか」と涙ぐんだ。…二人の息子を失った白髪の金沢市十三間町鈴木楢松さん(八〇)も「援護がこれ以上できないというのなら、われわれはそれも分る。しかしこの寒空に遺族を突っぱねる首相の気持ちが人間として分らない」と語っていた。…大磯町遺族会の有志はふるえている人々のため天幕を張り、おムスビをたき出しながら「吉田さんもあんまりだ。せめて一目だけでも会ってあげればよいのに…」と同情を寄せ、その心尽くしの毛布にひざをくるみ“靖国の歌”を唱和する代表といっしょにいつまでも座込んでいた。」

先のたき火はなんと地元民によるサービスであった。遺族のコメントにおける「金のことはともかくとして」「できないというなら、それもわかる」という部分や規律を保とうとする姿勢には涙ぐましいものがある。私見をはさめば、戦没者遺族援護は戦後日本が大日本帝国をその手続きにおいて引き継いでいる以上、当然の義務であり(無論階級制は大反対、勤続年数別も反対)、遺族の側が卑屈になる必要もないのである。

翌日、遺族たちはようやく首相との会見に成功した。

「…首相は「昨日大磯でお会いしなかったのは大磯が私邸で、そこではどなたが陳情に来ても一切お断りしているから悪しからず」とまず丁重にわびた後…」(『朝日』1952.1.22)

ここで吉田の身振りに注目しておこう。吉田は、わびている。これが正しく保守的、ということであろうと強調しておきたい(変革的な人が首相になったことはないので仮定自体がほとんど意味ないのであるが、私邸だろうが公邸だろうが会う必要があれば会えばよいのである)。

そろそろ締めに入ろう。
僕が本稿を執筆した動機は二つある。ひとつは麻生宅に行こうとした人びとの行動、それがこの国の(そして世界の)貧困問題を背負っていた以上、きわめて深刻な問題であり、そうした人びとが首相の家に押しかけるということは歴史的に見た場合、前例もなく常識を欠いたことではない、ということがいいたかったということ。第二に、その押しかけられる側だった麻生太郎という人が、就任前後ぐらいから露骨に自分が吉田茂の孫であることを強調しているということに対する不愉快さからである。この人は、吉田に学ぶといっているがその意味が何一つわかっていない。政治家が、ある政治課題が重要であるという以上、その示すべき一つの規範はすでに示されているが、彼にはなんにも伝わっていなかった。
 学ぶといったらせいぜい、臣・太郎という真似事を始めようとしたりするつもりだろうか。でも、たぶん臣という漢字を間違えそうなのでやらないだけであろう。ちなみにこう書いてしまうと吉田の評価がやけに高くなってしまうが、それはあくまで麻生と吉田の「比較」という方法論上の限界に過ぎないのであり、僕の立場全体をあらわすものではないことは、最後にいちおう書いておきたい。

補足1:大磯の自宅がいくらかは知らないし興味もない。
補足2:遺族問題とリアリティ・ツアーを比べるなという声があるかもしれない。比較不能な部分もあるにせよ、それが生活の問題に直結していたという点において比べることの妥当性は担保できていると僕は思う。ただ、少し別の話なのかもしれないが、前から思っていたこととして、東京のこの界隈の運動が、変化球好きというか、ひねった表現が好きというか、恥ずかしがっているのかなんなのか、自分の課題意識を前面に押し出してやらないわかりにくいところがあるから、かえって僕のような人間は向き合い方に困ることがあるし、またそのすこし斜にかまえた様子をとらえて不真面目だという声があげられやすいのだろうと感じている。僕は直球勝負の運動が大好きだ、と酔いに任せて最後に叫んでこの長文を本当にしめたい。

*1:ちなみに軍人恩給は1953年8月に復活する。ここではあくまで戦没者遺族年金の問題であることに注意

*2:この点に、政治主張といえば国体論オンリーのどっかの空軍大将との違いがある。あぁ・・・!デモがしたい!デモが、必要だ!!