首猛夫×矢場徹吾「対談・排外主義に抗する」

首:どーも首猛夫です。
矢場:矢場徹吾です。
首:われわれはなんでこんなペンネームなんですか。
矢場:自同律の不快とか、そういうことです。ググってください。
首:講談社から怒られませんか。
矢場:ごめんなさい。
首:そういうわけで首と矢場の対談コーナーです。今回も飲んでます。
矢場:今回は赤ワインですね。カナート洛北の地下の酒屋で買ってきた、パックに入ったやつです。チーズとレーズンをつまみにすると非常に旨いです。
首:われわれは地域密着型の情報をお伝えします。
矢場:輸入物ですよ?



首:今回はショーヴィニズムについてです。
矢場:ショーヴィニズムと在特会をイコールで結んでもいいんですか? 厳密には・・・
首:彼ら自身の主張では、自分達は違うと言ってますね。そこにショーヴィニズムの現代的な展開の一つの特徴があると思います。
矢場:ええと、僕は日本国籍を持つ日本民族の社会で生まれ育ちました。日本人の名において外国人排斥をする人々がいる、というところでは、やはり「連中と一著にされたくない」という想いが強いですね。
首:僕も矢場さんの想いには同感です。しかし、ショーヴィニストのヘイトスピーチを目の当たりにするにつけ、日本人であるとか、そうではないとか、そういうカテゴライズには抵抗したいとも思うんです。個人に国籍を刻印していく作業が、そもそもショーヴィニズムの思考の根源にあるわけでしょう。排外主義のメカニズムは「想像の共同体」を作って、それによって同時に異分子を排除していくというものですよね。つまり自分たちの好きな理想像としての「日本」という枠を空想のなかで作り上げて、それからはみだすものを「反日」として切り捨てていく。そこで切り離せない作業が、「自分は日本人である」という宣言です。
矢場:ああ。それはそうですね。自分を排除する排外主義はない。「日本」および「日本人」と自分自身とを同一視していないと排外主義は成立しない。でも、ショーヴィニズムに抗するという場合には、さしあたって自分が国籍にカテゴライズされているという事実は引き受けていくべきだと思うんです。
首:ええと、それはつまり、自分が差別する側に立っているか、差別される側に立っているかということですか?
矢場:ここは厳密に考えていきましょう。いいですか。国家というシステムがあります。そのシステムは法律とそれに服従する国民とを必要とすることで成立しています。そこで法律の内部に安住することのできる国民と、そこから不断に排除され続ける難民が発生する。在特会は「外国人を排除しようと言ってるのではない、犯罪を犯した外国人を排除するのだ」という論法を使いますよね。ところが、在日外国人をめぐる問題は、彼らが不断に法‐外に排除され続けることで、国民のカテゴリーから排除され続けることで生じているんです。そうだとすれば私たちは法の内部に置かれる者として、法そのものに異議申し立てをしていかなければならないと思います。法というのは絶対的なものではなくて、様々な意見とか様々な立場の人がいて、そういう人たちの意見のせめぎ合いの中から合意形成されたものにすぎません。その合意形成に関わる存在という意味において、私は自分自身を「日本人」であると位置付け、そこから発言します。
首:それは法の外部に置かれている限り異議申し立てはできないことですか?
矢場:もちろん外部からの批判の可能性を否定するつもりはありません。ただ、それだと異議申し立ての意味が変わってきます。法が国民を措定すると考えるか、国民が法を措定すると考えるか。さしあたって自分は法の内部から、法を構成する国民として、法そのものに異議申し立てをしていきたい。私自身が運動を始めようとするとき、結局そこからしか始められないと思うんです。
首:それならわかります。問われているのは在日外国人ではなく、ショーヴィニストでもなく、私たち自身なんですね。
矢場:そうです。僕が日の丸を糞喰らえと思うのは、かつて日本は日の丸の印の下に植民地化と侵略とを行った歴史があるということ、そしてそのことに無批判であるままに、無邪気にその同じマークを背負い続けるという行為に対する嫌悪感です。
首:だから日の丸がうんこなんですね。
矢場:うんこが日の丸なんです。
首:ニャンコが日の丸というのもそうですか?
矢場:それはニャンコが日の丸なんです。
首:するとだんごが日の丸というのは、日の丸がだんごなんですか?
矢場:何を言ってるんですか。
首:えっ。
矢場:あっ。



首:排外主義者の主張をみていると、彼らが自分自身のアイデンティティを「想像の共同体」としての「日本」に投影して、自己肯定するプロセスがあるというところを指摘したいと思います。欠けているものを埋め合わせる作業としての、失われたものを再生し、自分を癒すための物語として排外主義がある。自己肯定するプロセスそれ自体を批判してるのではないということに注意してください。言うなれば、僕たちだって運動の中に自己肯定を求めているわけですから。ナショナリズムやショーヴィニズムが、ある種の「癒し」として機能しているということは非常に興味深いですね。彼らを含め、私たちは傷ついている。それがなぜかといえば、僕たちの見解では、新自由主義の段階に立った資本主義が、人と人とを分断し、孤立させ、貧困化させているからです。子供の頃には頑張って勉強すれば普通に会社に就職できて、普通に幸せな生活を送ることができると教え込まれていた時代がありました。しかし現実はそうではない。いくら頑張ったって普通の生活を送ることが困難な社会になっている。大学を出たってフリーターになるしかない。ようやく就職先を見つけたところで、仕事は昔に比べてハードになっているし、残業時間も多い。収入も昔ほどではありません。それだけじゃない。人と人との繋がりも希薄になってます。アパートの隣の部屋にどんな人が住んでいるのかもわかんない。隣人同士助け合うなんて、昔はあったかもしれないけれど、今はそんなのありません。「なんでこんなに節約せなあかんねん」というちっぽけな呻きが僕たちの出発点です。そこで僕たちは資本主義のシステムそのものに異議申し立てをする。資本主義のシステムを維持している国家に、政治に、法に異議申し立てをする。同時に、一緒にサッカーで遊んだり、読書会をしたり、映画をみたり、飯を喰ったり、議論し合ったり、慰め合ったり、愚痴をこぼしたりしながら、新しい生き方を、新しい社会を、模索しようとしているわけです。ええと、ちょっと長く喋りすぎてますけど、いいですか?
矢場:続けて下さい。
首:ありがとう。続けます。在特会の発言をみていると、まるで在日外国人さえいなくなれば自分達は幸福になれるんだと言わんばかりです。実際、彼らは「戦争犯罪の賠償金を支払うぐらいならそのお金を日本の失業者救済に充てるべきだ」といった類の発言をしています。これは驚くべきことです。新自由主義の段階に立った資本主義国家において、失業者を救済するなんて実際にはありえないことです。これは皮肉などではなくて、本質的な問題です。デイヴィッド・ハーヴェイの指摘によれば、新自由主義は、資本が成長することで「トリクルダウン」が発生するという。つまり、大企業が儲かることで労働者にも分け前が「滴り落ちてくる」という言い訳を担保にして、社会的合意を獲得し、資本主義を構造改革していくわけです。日本では初期の頃には「外圧」に屈する形で新自由主義が導入されてきました。中曽根臨調や橋本行革がそれです。それが小泉の時代になって一変した。あたかも郵政事業を民営化すれば景気が良くなって生活が豊かになる、という社会的合意を形成して、新自由主義政策を推進した。そのあとに訪れたのは「いざなぎ景気」を超えるといわれる長期好景気です。これは多国籍企業に莫大な利益をもたらしましたが、しかし私たちの生活は一向によくならなかった。昨年八月に北海道洞爺湖でG8サミットが行われ、新自由主義政策を今後も推進していこうという国際的な合意形成が行われました。この新自由主義政策の国際的な潮流に対し、世界中で「グローバル・ジャスティス」運動が盛り上がっています。膨大な人数の人々が今の資本主義の潮流に対し、国際的な連帯でもって異議申し立てをしています。何万もの人々がデモを行い、労働争議が起きています。ところが日本では・・・
矢場:何万もの人々が自殺している。こんな状況は誰も望んでいないのにね。僕は通勤電車が止まるたびにひどくやりきれない想いに駆られます。また一人の人が命を落としたのかと悲しく思うと同時に、自分が仕事に遅れてしまって困る、あるいは早く帰って眠りたいのに困る、という苛立ちです。人としてはまず悲しむことが正しいんでしょうね。でも苛立ちのほうが先に来る。そこで、「もし」という別の自分自身を空想します。もし自分に反戦生活の仲間がいなかったら、仕事だけに生き甲斐を見いだして、それに押しつぶされていたら、もし自分がたった独りならば、もし自分がもうちょっと弱かったら、車輪の下にいるのは自分だったかもしれない。そのことがひどくやりきれない。そしてまた、べつの「もし」を空想します。もし労働組合や左翼政党がもっと効果的に機能していたら、こんな社会にはならなかったんじゃないか。でもそうはなっていない。これが明け方なのか夕闇なのかわからないけれど、つまるところ自分は昼と夜との中間にいて、ふらふらと、どちらに転ぶのかわからない暮らしを送っている。グローバル・ジャスティス運動が海外で盛り上がってると言われても、正直ピンと来ないわけです。



首:確かに日本の労働組合や左翼政党は健全というにはほど遠い状態にあります。でもそれは海外の労働組合や政党だって同じです。例えばフランスの現代思想、例えばアルチュセールでもドゥルーズでも、フランス共産党の状態に対する異議申し立てから、どうやって新しい運動を創造していくかという提言の中から生まれてきたものです。日本ではフランス現代思想ニューアカを経由して輸入されてきましたから、政治的な色合いは、意図的にかどうか知りませんが、脱色されていますね。だから難しくてよくわからないと感じる。知識人のオモチャになっている。日本では、左翼運動は七〇年安保闘争以降どんどん右肩下がりになってきて、一九八九年を境目に一気に衰退しました。九〇年代は政治的空白の年月です。そのあとアメリカの反テロ戦争があって、それまで本当に政治に興味のなかった若者たちが反戦運動に参加し始めた。歴史的な経験の蓄積から分断されたところから始まった、ゼロからの出発でした。だから過ちもたくさん犯した。議論を交わしていて、七〇年代の古い資料をふと読んだら、自分たちが今議論していることがとっくに議論しつくされていて愕然とする。海外の状況と見比べると、本当にひどいものです。例えばパリの五月革命の学生ダニエル・コーン・バンディが欧州緑の党で重要な立場になってたりするでしょう。じゃあ、あの時代、世界で最も大規模で激しい行動を行い、世界中の学生たちを勇気づけた日本の学生運動を担った世代の人々、日本の全共闘世代がなにをやってるのかというと、いわゆる団塊の世代に当たる人々ですが、あたかもそんな時代があったことを忘却しているかのようにさえ見える。歴史が断絶している。
矢場:連合赤軍事件は相当な衝撃だったんでしょうね。まあそのあたりは、その時代を生きた人たちにちゃんと語ってもらうのが一番いいかもしれません。ただ、経験というか、教訓のようなものは継承していかなくちゃいけないと思います。連合赤軍事件についてはずいぶんたくさんの記録が残っていて本当に良かったと思うんですが、例えば僕が連合赤軍事件の記録を読むときに感じるのは、正しい存在になろうとする、その執着の異常さです。人間誰だって過ちは犯すし、僕だって今後も間違いを犯さないとは言えない。ひょっとしたら誰かを傷つけてしまうこともあるだろうし、間違ったことをしてしまうかもしれない。でもそれが人間ってものでしょ。以前インターネットで「反戦」と名の付く団体がリストアップされて、「お前達は普段から反戦だの平和だの言ってるが、チベット問題については何も言ってない」と批判されるということがありました。われわれ「反戦生活」も「反戦」というキーワードでひっかかって、名だたる反戦団体と一緒に批判されたんですが(笑)、いや、そのときはわれわれみたいな弱小団体が有名になって当惑しましたけど。
首:僕はチベット問題については不勉強だったなあと思いましたよ。
矢場:それはそうですね。ただ、それ以上に嫌だなあと思ったのは、中国を批判しないという点において他の団体を批判する、という、その行為の傲慢さです。争点というのはいろんなところにあるわけで、全部をやるわけにはいかない。フリーチベットの人たちが僕たちを批判したとき、じゃあお前たちはパレスチナについて何をやってきたんだと言い返すこともできたわけです。日本国内で失業率が高まっているという問題について、あるいは国内の野宿者問題についてお前たちは何をやってきたんだと言い返すというやり方もあったんです。でもそれは言っちゃいけない。絶対に。自分がどこまでパレスチナ問題について関われたのか、野宿者問題に関われたのか、自分とは違う生き方をしている人々の闘いとどこまで連帯できたのか、つながりあえたのか。そのことを内省していくと、他人様のやってることを批判するなんてできないですよ。誠実であろうとするがゆえにそういう揚げ足取りのような批判に沈黙してしまい、運動から離れていったかもしれない人々を想うとき、やっぱそういうことをやっちゃいかんなと。それををやったら内ゲバになっちゃうなと。自らの正しさを担保して他人を批判する傲慢さ。それはつきつめていくと連合赤軍みたいになっちゃう。だって絶対的に正しい人なんていないし、究極的な真理なんてものもないんだから。
首:正義と真理の問題についての思考といえば、それこそ人類の哲学の歴史そのものですよね。在特会は「自分たちは外国人排斥じゃなくて法律に違反した外国人を取り締まれと言ってるんだ」と、そう彼らは言うでしょう。法律と正義との問題について真剣に考えたらそんな薄っぺらいこと言えやしませんよ。
矢場:単純なんですよ。だからわかりやすい。だから恐ろしい。今回僕たちは在特会の京都デモに抗議する行動に取り組みましたけど、三つの意味があったと思うんです。一つは、在日外国人たちに「あなたたちは孤立してなんかいない」と呼びかけることです。一つは、在特会の言葉に騙されてショーヴィニズムに取り込まれてしまう人々に語りかけることです。そして最後の一つは、ショーヴィニズムを生み出してしまった日本という社会を構成するところの、私たち自身への自問、自らへの問いかけです。在特会の主張をみていると、ものすごいルサンチマンというか、屈折した感情があるように思えます。それはわかるんです。僕も屈折してますから(笑)。在特会の京都デモへの抗議行動はYouTubeでもニコニコ動画でも見ることができます。とりわけ2ちゃんねるニコニコ動画のコメントを見てると、あいつら左翼は動員されてるんだとか、給料出てるんだとか、日本は実は左傾化しているんだとか、そういう奇妙なコメントを目にします。その中でもっとも屈折してるなあと思うのが、日教組への批判ですね。ものすごい極左団体だと言われている。僕は、いわゆるネトウヨというのは、たぶんすごく頭が良くて、それでいて学校のシステムからドロップアウトしている高校生ぐらいの若者たちなんじゃないかと想像しています。だから教師や団塊世代へのルサンチマンが強い。
首:矢場さんはインターネット見過ぎですよ。2ちゃんねらー
矢場:ねらーとニコ厨とは厳密には違うんですが、その解説は論旨から外れるので、誰かがコメント欄とかに書いてくれるのを期待しましょう。ええと、ちょっと「国民が知らない反日の実態」というサイトをみてみましょう。この中のコンテンツに「反日勢力リスト」というのがありますね。ちょっと見て貰えますか。
首:これは在特会のサイトとは別物ですね。あれ? 反日勢力「綺麗事保守」というカテゴリーがあるんですね。その他にも自民党議員のリストアップ、政府機関、警察庁も入ってますね。マスコミでは読売や文藝春秋も入ってるのはなぜだろう。電通に日経連まで載っている。これはすごいなあ。愛国者の人たちは敵が多くて大変ですね。反日民間団体に反戦生活が入っていないのは、私たちの力不足ということでしょうか。
矢場:なにか連想しませんか。
首:ううーん。昔の左翼の思考パターンを連想してしまいますね。自分たち以外はみんな間違っているという。「綺麗事保守」というのは、保守でありながらショーヴィニズムを否定する人たち、ということだと思うんですが、これは一歩間違えれば主要打撃論とか連合赤軍的な思考パターンに転びかねないなあ。正しさを追求することに腐心するようになると身内の中に敵がいるんじゃないかという疑心暗鬼に駆られてくる。
矢場:ところが彼らは既にそこを出発点にしてしまってるわけです。つまり、朝日新聞やTBS、護憲団体、市民団体、フェミニスト日教組などをつうじて、日本を中国や北朝鮮に売り渡そうとしている、という世界観です。だから彼らは日本は既に左傾化していて、それを「普通の国」にしようと、そう言ってるわけです。
首:朝日新聞やTBSが左翼って、馬鹿馬鹿しい。マスコミが仮にリベラルなことを言ってるように見えるとしても、それは経営戦略以上のものではないです。彼らは企業ですから。資本主義のシステムがどういうふうに絶対的および相対的剰余価値を生み出しながら労働者を搾取していくか、とか、資本がどういうふうに本源的蓄積を行っていくか、とか。国家というのはブルジョアジー剰余価値を生み出すのに必要な事務を引き受ける委員会でしょう。国家が資本主義の発展を牽引していた時代には両者の利害は一致していましたが、今は多国籍企業が資本主義の発展を牽引している時代です。だから今や国家は国民の利益を捨ててでも資本に奉仕する。「蓄積せよ、蓄積せよ、それがモーセ預言者なのだ」。昔の右翼はそのあたりは理解していたように思いますが。
矢場:そういう話にはなりませんね。昔の右翼は転び左翼が多かったから(笑)。僕は在特会ネトウヨの主張をそういうふうにいちいち論駁することにあまり意味があるとは思えないんです。公理系の違う論理は噛み合わない。むしろ論理そのものを問いにふす方がいいのではないかと思います。
首:展開してください。



矢場:靖国神社遊就館は首さんも見学されたことがあるかと思いますが、九段下に昭和館というのがあるのを知ってますか。
首:もちろんどちらも見学しましたが、いちおう説明を。
矢場:昭和時代の、とりわけ戦前・戦後の人々の暮らしの様子が保存されている施設です。ええと、僕が下手に説明するより東京に行ったときに実際に見に行ってもらったほうがよくわかると思います。あまり忖度しすぎるのもどうかと思いますが、遊就館昭和館在特会とかネトウヨと呼ばれる人々の主張に心を動かされる、そうした若い人々の心性を端的に表象していると思うのです。天下国家を論じたり強いものや大きいものに憧れることで自分を大きな存在にしようというのは、右にも左にもどちらにもいたと思うのです。それを表象するのが遊就館です。
首:武器とか飾ってますもんね。で、昭和館の方は。
矢場:ちゃぶ台と千人針が共存している生活が表象されていると思うのです。つまり、現代人は昔の人が持っていた何かをなくしてしまっていると、そういうふうに呼びかけるわけです。それはみんなの持っている喪失感や心の傷、欠落感に訴えかけます。欠落しているものは埋め合わせられなければならない。それがちゃぶ台のある生活です。家族が輪になって食事をし、真面目に正直に生きていれば必ず幸福になれた時代。そこに憧憬を感じた人々が「昭和」というキーワードに惹かれるのではないでしょうか。しかしそのちゃぶ台のある生活の隣には、千人針と血染めの日の丸がある。ここには歴史に対する批判的な視点はありません。というのも、「昭和」は失われてしまった理想郷そのものなわけですから。だから戦争は、あらがうことのできない状況、地震や災害にも似た災厄そのものとして描かれます。しかし理想郷の住人たちは助け合いながら災厄を乗り切り、その果てに平和な今の日本を作り上げる。こうして彼らは自らを発見します。本当に今のこの時代は理想郷に住む人々が求めたものだったのだろうか。自分たちの時代は本当に正しいのだろうか。このように考え、ふと新聞やテレビを見たとき、彼らは強烈な不安を覚える。というのも今の生活のなにもかもが理想郷とは違ってしまっているからです。こうして無意識にちゃぶ台のある生活を再び獲得しようとして、彼らは血染めの日の丸に手を伸ばす。
首:歴史に対する批判的な視点がないというのが興味深いです。それは理想郷に傷をつけたくないから?
矢場:理想郷が理想郷であるためには、そこに悪意は存在してはならないということだと思います。だから南京大虐殺は「なかった」し、従軍慰安婦は「存在しなかった」。歴史は私たちが考えている以上に不安定で多様です。だから彼らは「これこれこういう理屈があるから、もしくはこれこれこういう数字がないから、こんな事件などあったはずがない」という問いを立てるわけです。
首:そこが僕たちとの大きな違いですね。歴史を批判するときには「ありえなかったはずの、もしくはありえないはずの事件が、なぜ起きてしまったのか」という設問から始めるわけですから。つまり、彼らと僕たちとの違いというのは、現在という時代が何か間違っているという認識は同じで、その解決の仕方に違いがある。
矢場:その問いの立て方の違いがすなわち公理系の違いです。ソ連や中国、カンボジアルーマニア、そしてユーゴスラビアの経験から私たちが学んだのは、ユートピアなど過去にも未来にも存在しなかったし、期待するべくもないということだといえるでしょう。むしろ私たちは不幸にも孤立し、憎しみ合っている。聞こえるのは小さな声だけです。「なんでこんなに節約せんとあかんねん」という程度の、か細く、今にもかき消されそうな小さな声です。しかしわたしたちは絶望しません。バラバラにされているからこそ、異なる存在だからこそ、互いに手を伸ばし、理解し合おうとすることができる。それは例えばある階級が権力を獲得したからといって終わるような類のものではありえません。その作業は永遠に終わることがありません。私たちは永遠に理解不可能で、だからこそ歴史は前に進むのです。だからこそ海を越えた人々の声を聴こうと望み、友愛を届け合うことを望むことができるのです。理解し合えないのだから、私たちのしていることが他の誰かにとって正しいのか、正しくないのか、それはわかりません。大切なのは問い続けること。問いを終わりにしないことです。
首:真理の命題はそれが明かされないからこそ真理でありうる、ということですね。
矢場:今回はコメント欄が荒れそうで楽しみですね。理解されないことに可能性を託す立場としては望むところです。
首:インターネット上の署名のない発言については違和感があるんですが。
矢場:等価ですよ。全てのテクストは本質的に記名されえないものですから。
首:つまり実は矢場さんが荒らしている?
矢場:えっ。