首猛夫×矢場徹吾「排外主義に抗する2」

首:首猛夫です。
矢場:矢場徹吾です。
首:われわれはなんでこんなペンネームなんですか。
矢場:自同律の不快です。今回は首さん自作の梅酒を飲んでます。甘いです。ちょっと氷砂糖が多かったみたいですね。
首:梅干しに使えなかった傷ものの梅で作りました。ソーダあるよ?
矢場:梅干しで焼酎飲みましょうよ。
首:もうちょっと寝かせた方がおいしいよ。


矢場:前回の対談が一部で好評だったようなので、続編企画です。
首:ええと、在特会YouTubeとかニコニコ動画で動画をアップロードして活動報告をしていますよね。あれはなんでなのかなあと思ったんですが。
矢場:それで首さんに紹介したのが東浩紀の「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)という本です。サブカルチャーへの偏愛を全開にして書かれていて、多くの読者は置いてけぼりをくらったような印象を受けたと思うんですが、東さん的にはすごく頑張ってメジャーなものばかり選んでいるというところが伺えて笑えます。
首:僕は今でも作品論に関しては置いてけぼりをくらっているんですけど、第1章で論じられている「オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび疑似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいる」(p.24)という部分が非常に重要だと思いました。「オタク系文化の日本への執着は、伝統の上に成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている」(p.25)というのは、これは、矢場さんから見てどうですか?
矢場:優れた指摘です。ただ、日本の歴史が敗戦を契機に断絶しているというのは、少し違うように思います。厳密には、断絶したのは八〇年代で、そこから「敗戦をどのようにとらえるか」という視点が断絶して、その結果敗戦以降の歴史が断絶するという、もうちょっと複雑な構造があるように思います。このあたりは大塚英志「『おたく』の精神史」(講談社現代新書)が詳細に論じてます。ここは東浩紀大塚英志の政治的スタンスの違いが如実にあらわれている点です。
首:データベース論のところは、あれはどうなんですか。サブカルチャーというのは内容的にもけっこう分岐するもんだと思うんですが、これだけの情報量がいったいどれだけの範囲で共有されてるんでしょう?
矢場:もちろん分岐はしていて、あるジャンルに親しんでいる人にとって常識となっているデータベースが他のジャンルに親しんでいる人には意味不明だということはよくあります。東浩紀美少女ゲームオタクで、そのジャンルから見える視点によって分析を行っています。
首:蛸壺化している?
矢場:たぶんその表現が一番適切。
首:共有されているデータベースの個々の情報はそれぞれのジャンルによって違うけれども、「動物化するポストモダン」的な構造は共通しているということ?
矢場:それはどうだろう。例えばボーイズラブというジャンルに関して言及することを東浩紀は慎重に避けていますね。ただ、僕が見るところ、在特会は「動物化するポストモダン」的構造で理解できると思います。そこに在特会とインターネットとの親和性があるんではないかなあと思います。


矢場:インターネットの特徴について考えてみましょう。インターネットスラングの中に「情弱」という言葉があるんです。これは「情報弱者」を略した言葉で、インターネットを利用する機会がないために、得られるべき情報が得られない、そういう人のことを指します。インターネットユーザーの中には「テレビや新聞では報道されないけれども、インターネットの普及で知られるようになった知識」として、「マスコミが自衛隊を合憲化することを是としないのは、情報操作されてるからなのだ!」とか「政府は本当はたくさん有益な制作を実行しているのに、首相の漢字の読み間違いとかつまらないことばかりあげつらって現政権を貶めているのは、情報操作されてるからなのだ!」といった情報が提供されることで、「実は中国や北朝鮮がマスコミを操っているのだ!」という陰謀史観が蔓延することになってるわけです。これは一見非常にファナティックな意見のように思えますが、あながち否定しきれないことはないんです。
首:えっ。
矢場:つまりですね、テレビなどでは視聴率欲しさにセンセーショナルな部分をクローズ・アップした報道がなされたりして、情報が偏る傾向にあるのは確かですよね。あるいは「原発タブー」とかスポンサーの影響によるバイアスも実在するわけです。そういうところで「既存のマスコミが信頼できない、広告収入を基にしないインターネットでは正しい情報が得られる」という錯覚が生まれる余地があるわけです。
首:んー・・・。続けて下さい。
矢場:しかし、広告収入がないということは、必ずしも情報のバイアスがないことを意味しません。例えば昔「噂の真相」という雑誌があって、これは広告収入がなくタブーもないメディアとして有名だったんですが、「タブーがない」ということは「一般の雑誌に載っていないことが載っているはずだ」という期待が受け手の側にある。センセーショナルなことを書き立てないと売れないわけです。そういうわけで、「噂の真相」にはいい記事もありましたが、芸能人の情事がどうのとか下らない記事もたくさんありました。それが実際に雑誌の売り上げを左右していたのかどうかはわかりません。しかし情報を発信する人と受け取る人との欲望の絡み合いが、情報そのものにある種のバイアスをかけていたことは確かです。そこで話をインターネットに戻しますが、インターネットの情報にも結構強いバイアスはかかっているわけです。「なるべく多く閲覧されたい」「情報をわかりやすく説明して欲しい」「早く伝達して欲しい」という、発信する人と受け取る人の欲望の絡み合いが、情報にバイアスをかける。これを解決するために、インターネットでは、「事実を既成概念に押し込める」という手法が使われます。既成概念というのは、東浩紀のいうところのデータベースです。
首:例を示してください。
矢場:ええと、これは主に2ちゃんねるで「二ダー」と呼ばれるアスキーアートです。

<丶`∀´>

これはネットで朝鮮人とか韓国人に対するヘイトスピーチに使われるキャラクターで、ハングル板(いた)のマスコットです。目が細くてつり上がっていて、顔の輪郭が角張っている。次に「シナー」と呼ばれるアスキーアートを見てください。

(  `ハ´)

これは中国人に対するヘイトスピーチのときに使われます。ラーメンマンみたいで、イメージだけが先行していて、実際の朝鮮人や中国人とは違うわけです。「二ダー」も「シナー」も、意図的に悪意をもってカリカチュアライズされた台詞を喋らされます。朝日新聞アスキーアートもあります。これは「アカヒ」と呼ばれています。瓶底眼鏡をかけている。

(-@∀@)

首:こういうキャラクターは何か、小説とか漫画とか、物語に出演してくるわけですか? 「嫌韓流」みたいな?
矢場:普通に掲示板の書き込みの中で登場します。このキャラクターが「反日的」な台詞を喋るわけです。
首:へっ。それは誰が書き込むの?
矢場:もちろんその板の住人ですよ。例えば、「朝日新聞の紙面に南京大虐殺について生き残りの人の証言が掲載された」という事実があったとして、それを報じるスレッドがあったとします。そうすると誰かが「シナー」とか「アカヒ」とかを登場させて、「アカヒを利用して小日本からもっと賠償金を貰うアル」と喋らせるわけです。するとそれに呼応して他の人は「けしからん」と言うわけです。
首:なんで? 別に新聞にはそこまで書いてないわけでしょ?
矢場:いや、「アカヒ」は「反日イデオロギーを持ったマスコミ」というキャラクターなので、自動的にそうなるわけです。「朝日新聞は左翼である」とか、「毎日は変態である」とか、「日教組極左である」とか、「中国や韓国は日本に賠償ばかりを求めている」とか、「台湾は親日である」とか、「南京大虐殺はなかった」とか、あらかじめ価値判断を埋め込まれたデータベースの情報があるんです。データベースに事実が当てはめられることで・・・
首:わかった。それで自動的に「中国からの工作を受けたところの朝日新聞が、日本に賠償を払わせる反日工作をしている」というアノテーションがつくわけだ。なんだそりゃ。じゃあネット右翼が糾弾しているのは現実に存在する中国や朝日新聞ではなくて、その「シナー」とか「アカヒ」というキャラクターを糾弾しているわけじゃないの?
矢場:ズバリその通りです。そしてそのキャラクターはネット右翼自身が自分たちの脳内で作り出したものなんです。在特会がネットを中心に活動しているのは、こうしたデータベースのパーツを再生産し利用するためなんです。
首:マッチポンプ
矢場:自作自演。


矢場:もうひとつ興味深い現象を挙げましょう。「ブログ炎上」です。
首:それは知ってます。未成年のアイドルが煙草を吸ったとかお酒を飲んだとか、そういう些細なことに敏感に反応して集団で書き込みをするあれですね。あれはなんでなんですか。2ちゃんねるとかで「みんなで書き込もう」とか申し合わせるわけですか。
矢場:ブログに誹謗中傷を書き込むことを「凸」(とつ)といいます。まず誰かが攻撃対象にふさわしそうなブログを発見すると、そのアドレスを掲示板に書き込んだり内容を抜粋したりするわけです。これをを「さらす」といいます。そこで「間違っても凸なんかするなよ。いいか、絶対にするなよ」と書き込むわけです。ダチョウ倶楽部のネタなんですが、これは凸しろという前フリです。ちなみに電話番号を晒して実際に電話をかけることは「電凸」(でんとつ)といいます。
首:わりと軽いノリでやるわけですね。それにしてはけっこう強い言葉が書き込まれるように思うんですが。
矢場:そこはそれ、2ちゃんねるの中ではけっこう強い言葉が日常的に使われていて、普通の会話でも、知らない人が見たらまるで罵り合っているようにしか見えないような状態になわけです。「氏ね」とか「マジキチ」とか。だからどういうふうに書けば相手を傷つけるような効果が出るのかはみんな常識的として知ってるわけです。
首:嫌な常識だなあ。それでもね、よくわからないのは、なんでそんなことをするんかということです。芸能人が煙草を吸おうがどうしようが、別に自分に被害があるわけでなし、どうでもいいんじゃないですか?
矢場:芸能人の場合には二通りの解釈が考えられると思うんです。ひとつは、アイドルに煙草なんか吸わない清純なイメージを抱いて、CDだのポスターだのたくさんのお金を注ぎ込んできた人が、裏切られたような気がするということです。
首:ああー。でもそれは幻想持ちすぎなんじゃない?
矢場:いや、でもアイドルは商品なんだから、そもそもの初めから物象化して現前するわけでしょ。それでみんな幻想を買うわけだから。そういえば「かんなぎ」という漫画があって、ヒロインが処女ではないということが明らかになると、その漫画のファンが怒って漫画をビリビリに引き裂いた写真をアップロードしたりするということもありました。金返せと。
首:うーん。それはもうどうコメントしていいのかわかんない。
矢場:ふたつめは、有名人を引きずり下ろすことで、無名の人でも簡単に全能感を持つことができるということです。
首:それは共感はしないけど理解はできる。前回の対談でみんなが喪失感を持っているという話をしたけど、それが満たされるわけでしょ。でもその二つの解釈は有名人が対象ってことでなきゃ意味をなさないじゃないですか。それじゃあ、有名でも何でもない人のブログが炎上するのはなんでだろう。見知らぬ未成年が煙草を吸っていたからって、まあそれ自体はよろしくないことではあるけれども、見知らぬ人のことなんだから自分に害が及ぶわけでもないでしょ。なんでそんなにヒステリックに怒るのかがわからない。その負のエネルギーはどこから来るんだろう。攻撃する行為自体に快楽を感じてるんじゃないかなあ。水平暴力。
矢場:ここから先は推測なんですけれども。
首:ん。
矢場:倫理のあり方がデータベース化しているんじゃないかと思うんです。データベースを参照するということは思考停止であって、思考停止というのは他者とか外部に判断を委ねることに他なりません。それは自らのうちに責任を認めない。
首:うん。
矢場:ブログ炎上とは自分の利害のために糾弾するのではなくて、他者のために糾弾すること、他者になりかわって他者の利害を代弁する糾弾です。想定されているのは、当該の未成年の喫煙によって被害をうけるかもしれない任意の人です。存在しないがゆえに語ることができないところの架空のサバルタンを代弁して糾弾する。他者とは存在とは別の仕方であるところの無限です。だから代理糾弾は神になりかわって行うところの絶対的な裁きです。つまり、ブログ炎上とは無名の人々が神になりかわって裁きを行う代理糾弾であって、それゆえ容赦することも妥協することもない絶対的な攻撃、剥き出しの暴力になるわけです。
首:マッチポンプ
矢場:自作自演。

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首:実際には存在しないところの架空の「日本」が、実際には存在しない「二ダー」や「シナー」によって危機にさらされている。在特会はいわば、神になりかわって、そうした架空の「反日勢力」を代理糾弾する。
矢場:どうしたらいいんでしょうね。
首:「それはレイシズムだ」とか「それはショーヴィニズムだ」とか言ってもあんまり効果ないですね。頭の中で自己完結してるわけだから。
矢場:こっちも桜井誠とか西村修平アスキーアートにする?
首:それは違う。構造を逆手に取るんじゃなくて、構造そのものを解体するように持って行かないと。ありのままのものをありのままのものとして理解するというプロセスが必要なんじゃないですか。現実を見ないと。
矢場:でもありのままのものを理解するって何でしょう。僕たちは大なり小なり何かしらイメージを適用することで現実を把握してるんじゃないでしょうか。科学とはそもそもの分類することだったわけでしょう。概念装置を使って現実を把握する。それ自体は本当に否定しきれることなんでしょうか?
首:挑発的な議論ですね。ちょっと考えていいですか。
矢場:うん。
首:・・・思考停止しないこと。他者に判断を委ねないこと。自らを問い続けること。
矢場:うん。
首:マルクスヘーゲル批判の核心は、弁証法の史的展開をプロイセン国家で止めてしまった、つまり世界精神の最終的な形態が現在の社会に受肉したと認めてしまったという所にあると思うんです。そうなると歴史はそこで終わる。それは思考停止です。同じ事がロシア革命でもありました。ボルシェビキは権力を獲得した時点で自分自身をアウフヘーベンすることを止めてしまった。トロツキーはそれに対して永久革命論を持ち出すことで批判したわけです。ただしトロツキーはプロレタリア国家はまだ到来していないという言い方をしていて、僕はその言い方はちょっと違うと思うんです。マルクスの革命理論はヘーゲル弁証法です。ブルジョアとプロレタリアは相互に排除しながら現れる資本主義社会の別の側面です。プロレタリアはプロレタリアとしての自分自身を死滅させないといけない。その後も弁証法は永久に展開され続けなければいけないわけで、動きを止めてしまったら最後、ヘーゲルの観念論的弁証法のように、自分自身に対立するようになる。つまりマルクスヘーゲルの理論をヘーゲル自身に適用して批判をおこなうわけです。
矢場:うん。
首:現実を把握するプロセスに対する不断の問いかけが必要だと思うんです。われわれはともすれば公式にあてはめるように、憲法は守らなくちゃいけないとか、軍隊は悪いものだということを言ってしまいがちです。それは確かにそうなんだとしても、なぜ憲法を変えちゃいけないのか、軍隊はいらんのか、新しい世代の若者に改めて問いかけられたとき、その時々の状況に応じて一緒に考えていかないといけない。これは決して前衛党がイデオロギー注入をもっとしっかりやらなきゃいかんという意味ではないですよ。新しい世代の若者という他者が到来したとき、応答‐可能性のなかに自らの身体と言葉を置いて応え、共に歩んでいけるのかという問題です。問われているのは私たちです。その不断の努力を怠ってきたツケが、在特会の台頭という形で現われているんと違うかな。
矢場:前衛党が必要だっていうのはもともとはマルクスの理論じゃなくてレーニンが言い出したんですよね。帝政ロシアのものすごい弾圧の中でなんとか活動をするために、それがマルクス主義の原理から逸脱していることを知りながら、敢えて前衛党論を唱えた。レーニンはしばしばこういう原理からの逸脱をやらかすことでピンチを切り抜けて、最終的には権力奪取に成功する。そういう意味では非常にプラグマティックですね。
首:そこなんだけどね。最近「ボルシェヴィキによって歪曲されて伝えられてきたところのマルクスは本当は何を言っていたのか」という研究者がいますけど、あんまり意味ないと思うんです。スターリンレーニンを歪曲した。レーニンエンゲルスを歪曲した。エンゲルスマルクスを歪曲した。しまいには後期のマルクスと初期のマルクスを分断して、真実の、歪曲されない純粋無垢なマルクスを探そうとする。こんな読み方は全く無意味です。
矢場:続けてください。
首:レーニンはしばしば自分の論敵を「マルクスの言ってることとは違う」と言って非難したけれども、それは基本的にはその論敵が「自分たちの意見こそが正当なマルクス主義なのだ」という言い方をしているから、その文法を論敵自身に返してるからだというふうに感じます。レーニンマルクスが実際に何を言っていたかについて聖書学者のような興味を持っていたようには思えません。どっちかというと、内容の豊かな本だったりすると、自分と書物とが対話するみたいに深く読み込むことのできるものありますよね。そういうものとして読んでいるように感じます。レーニンの時代にはマルクスの遺稿はまだ全部整理されてませんでしたけど、レーニンマルクスエンゲルスがどんなふうにヘーゲルを批判し継承していったのか、その著作を読んである程度のヒントを掴んだあと、実際にヘーゲルの「大論理学」を批判的に読み込む体験をする。マルクスの息づかいを感じ、自分の思想をつかみとってるんです。レーニンの勉強ノートっていうのが残ってるんですが、これを読むとその真摯な姿勢がよくわかります。ソ連の抑圧的な政治をスターリンとかレーニンの責任にして自分たちを切り離して安全圏に置くような、そういう思想のあり方は、それこそマルクス主義的ではないです。マルクスは皆がヘーゲルを崇拝していた頃に批判し、皆がヘーゲルを「死んだ犬」みたいに扱った頃に自分はその弟子だと主張しました。そうだとすれば、これは極論かもしらんけど、今こそレーニンを、スターリンを読まないといけない。
矢場:それは極論。
首:本当に? 矢場さんはスターリンを読んで、その上でスターリンは悪いって思ってる?
矢場:読んでない。
首:読む必要もない?
矢場:うーん。単純に、政治的にはスターリン金正日もおんなじで、駄目に決まってるでしょ、と思う。
首:そう? グルジア語で、グルジア人に向けて書かれたような、外国の革命思想をいかに噛み砕いて自分たちの民族の問題として考えて、時には「革命的プロレタリアート」のあり方を痛烈に非難した、情熱に燃える若いスターリンの著作も読む必要がない? 僕はそうは思わへんのです。生きてるうちは全肯定され、死んだあと全否定されたスターリンは、実のところ未だ誰にも読まれてない。読みもしていないものを、自分たちとは無関係の思想だとシラを切ることはするべきではない。歴史の間違った部分を、まるで他人事のようにシラを切り続ける、そういう態度を続ける限り、つまるところ歴史を「阿呆の画廊」(ヘーゲル)に置くことになる。
矢場:なるほど。首さんの意見に全部賛成するかどうかはちょっと保留しときますけど、言いたいことは納得です。在特会的な思考パターンに僕たち自身も陥る危険性があるってことですね。
首:そうです。
矢場:在特会を批判するのに、彼らに正面から反論するのはあんまり意味がない、彼らと同じ議論の枠組みで反論するのは意味がないという話をしましたよね。私たちはその枠組みそのものを問いに付さんとあかんのです。そやとしたら、あらかじめ価値判断を埋め込まれた情報とか、そういうのをこそ拒否していかんとあかんのやと。わかりきった正義にしがみつくんではなくて、常に自分自身への問いとして立ち返り続けること。
首:レーニンマルクスを読んだ時のように、あるいは、スターリングルジア語で語った時のように、と付け加えてね。それではじめて僕たちの運動はレーニンとかスターリンの悪い部分から脱却できるんです。
矢場:うん。
首:今回はちょっとマニアックになりましたね。いま過去の左翼運動が袋小路に入って、明日の生活にも不安を感じる状況になっている。そこへショーヴィニズムの台頭です。私たちはどう考え、どう行動するのか。問われているのは私たちです。マルクスが1848年の革命の敗北を総括した文章があって、その冒頭が非常にいい文章なんで紹介します。

 わずかに数章の例外はあるが、一八四八年から一八四九年までの革命年代記の比較的重要な各編はみな、革命の敗北! という表題をもっている。
 これらの敗北において滅んだものは、革命ではなかった。滅んだものは、まだ激しい階級対立をとるほどに先鋭化していなかった社会関係の結果である革命以前からの伝統的付属物――すなわち、二月革命までは革命党がふりすてることができないでいた、人物や幻想や観念や計画であった。そして革命党は、二月の勝利によってではなくて、一連の敗北によってのみ、それらのものから解放されえたのである。
 一言でいえば、革命は、その直接的な、悲劇的な諸成果によって、その前進の道をきりひらいたのではなく、逆に、結束した強力な反革命を生みだしたことによって、つまり、それとたたかうことによりはじめて転覆の党がほんとうの革命党に成長することができるところの一つの敵をつくりだしたことによって、前進の道をきりひらいたのである。
「フランスにおける階級闘争」MEW7、原p.11