教育基本法改悪反対集会@円山公園 反政府、ナウ!

ども、成瀬です。終わってからであれなんですが、今日はお昼の二時から円山公園で、教育基本法改悪反対集会があったので、反政府分子も凝集してきました。
今日の京都の天気は、朝こそ曇りがちだったけれど、昼からは日差しも強くなり、30度弱に達した。日本共産党が主催に尽力していたこともあってか、多くの人の参加があり、主催者のカウントでは1700-1800人もの参加があったよう。市民参加、学生の参加が少ないのは自らの力量不足としてやはり悲しい。
斎藤貴男氏、大内裕和氏の講演はそれぞれの持ち味をいかした内容で、とても参考になった。今回の教育基本法改悪法案はほんとうにヒドい。自分が学生ということもあるが、あまりにもあんまりだ。
と、ヒドいヒドいと気分を書いていてもしょうがないので自分の考える問題点を以下に記す。
メディアでの報道を見ている限り、論点はいわゆる「愛国心教育」に集中しているようだ。しかし、自分が考える本質的問題点とは「政府権限の強化」にある。この点を追求するには、与党法案を逆から読んでいく必要がある(ちなみに、逐条批判をするわけではない。また、民主党法案は論外として言及しない)。
新設された第17条「教育振興基本計画」がその始まりである。重要なので全文引用する。「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」「2地方公共団体は、前項の計画を参酌し、当該地方公共団体の実状に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない」。
上記文面から、教育に関する基本的な「計画」を現政府が定める、とされていることがわかる。この計画とは、国会に「報告」とあることから、国権の代表機関としての国会ではなく、執行機関である政府がその「計画」決定を担うことになっている。
今回の改悪法案は、その管理の質を、行政権力のヘゲモニーを基礎としつつ、改悪された教育基本法を媒介にし、一方で企業家的労働を遂行する主体を重点的に育成しつつ、他方では行政ー司法(国家)権力による全個人管理体制へと権力関係を変位させることにその本質的特徴がある。
それでは、その「計画」の目指すものは何か。この問いに答えるその前に、教育を行う主体の位置づけおよびその範囲を確定するという、必要な迂回を経ねばならない。
第十六条「教育行政」これは、現行法第十条「教育行政」の改編条項である。ここでは現行法にある「国民全体に対し責任を負って行われるべきものである」との条項が削除されている。アジア・太平洋戦争末期においてその究極的惨状を示した軍部による教育への介入(そしてその正当化の根拠が天皇制に存在したことは言うまでもない)への批判として挿入された本条項は、戦後も政府による教育内容への干渉に対する防波堤として位置づけられてきたが、先に示した17条における国会から政府へという流れに従い、「国民全体に対し」という部分が削除され、むしろ何に従うのかが転倒したかたちで示されている。
次に、教育の範囲については新たに多くの項目が新設されている。第十三条において「学校、家庭、及び地域住民等の相互の連携協力」という三位一体が示されている。そこでは「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」とある。ここでいう教育、とは先に政府が示した教育であり、個々の家庭、あるいは学校、地域において設定された課題とは重なることもあれども、原理的に異なるものであると確認しておきたい。政府により決定された計画の役割と責任の自覚が立法化されようとしている。第十二条「社会教育」第十一条「幼児期の教育」第十条「家庭教育」において、ここでいう「教育」なるものが、まさに一個人における「ゆりかごから墓場まで」であるとし、一方で「父母その他の保護者」が「子の教育について第一義的責任を有する」主体として設定されている。この教育に第一義的責任がある、というが実はこの「教育」の計画は何度でも繰り返すが政府が決定するものである。
そもそも保護者に第一義的責任がある、というのならばその場合「公教育」とはなんなのだ、という話にもなるが、その議論は今はおいておこう。
ここまで、教育行政の位置づけの転倒、一個人の全人生を包摂する教育の拡張、そして学校と社会が連携して政府のたてた計画に乗っ取って行動するという条項を見て来たが、次にその学校なるものに関してだが、第八条「私立学校」第七条「大学」というかたちで、これにより実質的に全教育機関がこの教育基本法体制に包含されることが明示されている。冒頭にあげた学習指導要領は、現在小・中・高にしかなく、また原則的には範囲も公立校に限られていたのだ。
それでは、この全体化された学校教育において、何が目的とされているのか。いよいよ最初にたてた問いである、政府はなにを目指しているのかという点に踏み込むことになる。第六条「学校教育」「(前略)2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない」。続けて、「この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない」とする。条項のタイトルに「学校教育」と掲げておきながら、その実「教育を受ける者」のそうでなければならない姿勢を定めているのである。
第五条では「義務教育」とし、公教育体制における根幹部分の位置づけが与えられる。先に示された「学校教育」の目標の前提として、第二項を引用する。「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする」。
ここから、第四条「教育の機会均等」第三条「生涯学習の理念」と続くが、もう提起した問いへの答えへと急ごう。
第二条「教育の目標」。現行法において教育の「方針」と規定されているものが、「目標」へと遷移する。「方針」とは未来に対して開かれているものであり、個々人の成長に基礎をおく現行法であればそうでしかあり得なかっただろう。しかしながら、今次改悪法案では、それは到達点として示されているのである。一生涯にわたるはずの、この「教育」なるものが終点を定めている。私たち個々人の可能性、それらを全体のなかの一部分として取り扱うことに、この改悪法案の根本思想がある。
そこで掲げられている「目標」は全体で五項からなり、細分化すればを20を超える。「知識と教養を身につけ」「真理を求め」「豊かな情操と道徳心を培」い、「健やかな身体を養」い、「個人の価値を尊重し」「能力を伸ばし」「創造性を培い」「自主及び自律の精神を養」い、「職業及び生活との関連を重視し」「勤労を重ん」じ、「正義と責任」「男女の平等」「自他の敬愛と協力を重ん」じ、「公共の精神に基づき」、「主体的に社会の形成に参画し」「その発展に寄与し」、「生命を尊び」「自然を大切にし」、「環境の保全に寄与し」、「伝統と文化を尊重し」、「わが国と郷土を愛」し、「他国を尊重し」、「国際社会の平和と発展に寄与する」。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に対抗でもしているのかといいたくなるほどの徳目の羅列であるが、その空疎さと偏執ぶりには目を覆いたくなる。
先に述べたように、この羅列された諸「目標」の一つである愛国心問題に関心が集中している状況は、私自身いささかも、天皇制を基礎とする「愛国心教育」への批判を緩めるつもりはないにせよ、問題である。「目標」の内容の前提としての、教育基本法改悪案全体を貫徹する構造にこそ問題があり、この点が最重点で突かれねばならないのではないか。公教育における国家と人民の関係を合法的に逆転させる、この反「憲法」性、反「民主主義」性に本法案の本質的問題点があり、これは引き続く憲法改悪問題へと接続する極めて重大な争点である。
「体系的」だの「組織的」だのキーワードも飛び出ていたが(第六条)、これは新たな全体主義国家の法律である。だからこそ、私たちが本日のデモで叫んだように、「反政府、ナウ!」なのだ!

全体主義【ぜん・たいーしゅぎ】(totalitarianism)個人に対する全体(国家・民族)の絶対的優位の主張のもとに諸集団を一元的に組み替え、諸個人を全体の目的に総動員する思想および体制。
広辞苑』(第五版)

デモでは、ネットで見たドイツの左翼連中に刺激され、ついにダッシュを敢行。
なかなか気持ちいいものでしたなぁ。疲れてダイインというのもありか。ペース配分が課題?
写真は誰か撮ってんのかなぁ。