fuf通信no.5を読んで(成瀬)

フリーターユニオン福岡は定期的に機関紙『ニョッキ』を発行しており、毎号楽しみにしている。昨日それが届いた。反戦生活など第一号を出したのが一年以上前で、それ以来何度も二号を作ろうという話がでては消えているという悲しい状態である。

それはさておき、第五号では小野さんによる「「弾圧報道」から、出来事を告げ、知らせることへ」というコラムが印象に残った。

私たちも抗議声明をだしているが、今年五月のフリーター・メーデーで福岡の活動(「五月病祭」)は警察により予防的に封殺されてしまった。それはまぎれもない弾圧であった。ところが、小野さんはこのコラムで、自分たちの経験を単に「デモに対する弾圧」として了解してしまっていいのか、という問いかけからはじめている。それはもちろんあの当時fufブログに殺到したような、常識をわきまえろだとか、迷惑だから警察の規制は当たり前だとかという意見への迎合ではない。
小野さんが問うているのは、ある経験を「弾圧」として解釈する自らの主体の側であり、その認識枠組みそのものである。あるできごとについて「これは弾圧だ」と了解することが、一方でカウンター・アクションとしての運動をうみだすが、他方で、自分たち自身のあり方への問いかけを消してしまうことへの危険性を問うているのだと僕は読んだ。

いやその前に、僕たちは何をしようとしているのだろうか?デモ?集団的示威?祭り?一揆?・・・それは一体何?マスコミも含めて、「弾圧」が「弾圧」であることを理解できない人々を糾弾するより先に、僕たちは自分たちの感覚と言葉を鍛え、経験や行動を自分たちのものにするべきなのだ。(同コラムより)

文章全体を通じて既成の運動へのある種の気負いも感じはするが、なによりも新しい状況へ直面している自分たちの課題をしっかりと定めているというところ、加えてかかる「問い」が単に運動体へ内向するのではなく、福岡県警への抗議やマスコミへの働きかけetcという、社会制度に対する批判的実践から遊離することなくあるというところに感じるものがあった(そのことは、同封された「反弾圧報告」を読むことでよりいっそうクリアになる)。

私たちがこれまでと違う新しい状況を望む以上、そこでは私たちの現状を理解する枠組みそのものが再審され、批判されなくてはならず、そのための集団的な作業は、単なる知識の獲得にとどまるものではない。それは「わたしたち」という存在そのものをも自明視せぬための問いかけでもあるだろう。弾圧とは、現体制の暴力ともっとも直接に向き合う経験であるがゆえに、自らの一挙手一投足までが問い直す契機となる。それは実は、自分たちがどうありたいのか、ということを根本的に突きつけてくる。
資本主義に抗するカウンター・アクション、すなわち20世紀の社会主義経験が、いまや瓦礫となって散在する荒野を歩むかのごとき僕たちの運動は、こうした問いかけを忘れずにいることで育っていくのではないだろうか(戦後直後に貧しい人びとが皆当然のごとくそうしたように、瓦礫から新しい家をつくることができることはいうまでもない)。

自らの行動が絡まるからこそ重い問いかけに歩みをとめてしまうことなく、進んでゆきたい。奇しくもG8での弾圧に抗する取り組みが世界的におこなわれている日に福岡から届いた通信は、改めてそんなことを考えさせてくれた。