9.28(月)宇宙基本法学習会

宇宙基本法学習会

■宇宙空間を使う兵器開発は、ほとんどSFの世界の出来事の
ようであるが、現在も莫大な予算を使い開発が行われている。
そんな中、日本では昨年の国会で「宇宙基本法」が通過した。
この法律は、はっきりいうとやばい。なぜなら日本も宇宙の軍
事利用をしていくということだからだ。
■私たちの生活に果たして宇宙の軍事利用はいかなる影響を与
えるのか?
朝鮮民主主義人民共和国のミサイル発射がこれだけ問題にな
っているのに、日本の人工衛星発射はなぜ軍事的性格がないよ
うに報道されているのか?
■莫大な予算が使われる軍事産業がどれだけウハウハしている
のか?
■多くの方のお越しをお待ちしています。

日時:2009年9月28日(月)18時30分から。
場所:京都精華大学、情報館2階オープンスペース
主催:反戦と生活のための表現解放行動

首猛夫×矢場徹吾「排外主義に抗する2」

首:首猛夫です。
矢場:矢場徹吾です。
首:われわれはなんでこんなペンネームなんですか。
矢場:自同律の不快です。今回は首さん自作の梅酒を飲んでます。甘いです。ちょっと氷砂糖が多かったみたいですね。
首:梅干しに使えなかった傷ものの梅で作りました。ソーダあるよ?
矢場:梅干しで焼酎飲みましょうよ。
首:もうちょっと寝かせた方がおいしいよ。


矢場:前回の対談が一部で好評だったようなので、続編企画です。
首:ええと、在特会YouTubeとかニコニコ動画で動画をアップロードして活動報告をしていますよね。あれはなんでなのかなあと思ったんですが。
矢場:それで首さんに紹介したのが東浩紀の「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)という本です。サブカルチャーへの偏愛を全開にして書かれていて、多くの読者は置いてけぼりをくらったような印象を受けたと思うんですが、東さん的にはすごく頑張ってメジャーなものばかり選んでいるというところが伺えて笑えます。
首:僕は今でも作品論に関しては置いてけぼりをくらっているんですけど、第1章で論じられている「オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび疑似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいる」(p.24)という部分が非常に重要だと思いました。「オタク系文化の日本への執着は、伝統の上に成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている」(p.25)というのは、これは、矢場さんから見てどうですか?
矢場:優れた指摘です。ただ、日本の歴史が敗戦を契機に断絶しているというのは、少し違うように思います。厳密には、断絶したのは八〇年代で、そこから「敗戦をどのようにとらえるか」という視点が断絶して、その結果敗戦以降の歴史が断絶するという、もうちょっと複雑な構造があるように思います。このあたりは大塚英志「『おたく』の精神史」(講談社現代新書)が詳細に論じてます。ここは東浩紀大塚英志の政治的スタンスの違いが如実にあらわれている点です。
首:データベース論のところは、あれはどうなんですか。サブカルチャーというのは内容的にもけっこう分岐するもんだと思うんですが、これだけの情報量がいったいどれだけの範囲で共有されてるんでしょう?
矢場:もちろん分岐はしていて、あるジャンルに親しんでいる人にとって常識となっているデータベースが他のジャンルに親しんでいる人には意味不明だということはよくあります。東浩紀美少女ゲームオタクで、そのジャンルから見える視点によって分析を行っています。
首:蛸壺化している?
矢場:たぶんその表現が一番適切。
首:共有されているデータベースの個々の情報はそれぞれのジャンルによって違うけれども、「動物化するポストモダン」的な構造は共通しているということ?
矢場:それはどうだろう。例えばボーイズラブというジャンルに関して言及することを東浩紀は慎重に避けていますね。ただ、僕が見るところ、在特会は「動物化するポストモダン」的構造で理解できると思います。そこに在特会とインターネットとの親和性があるんではないかなあと思います。


矢場:インターネットの特徴について考えてみましょう。インターネットスラングの中に「情弱」という言葉があるんです。これは「情報弱者」を略した言葉で、インターネットを利用する機会がないために、得られるべき情報が得られない、そういう人のことを指します。インターネットユーザーの中には「テレビや新聞では報道されないけれども、インターネットの普及で知られるようになった知識」として、「マスコミが自衛隊を合憲化することを是としないのは、情報操作されてるからなのだ!」とか「政府は本当はたくさん有益な制作を実行しているのに、首相の漢字の読み間違いとかつまらないことばかりあげつらって現政権を貶めているのは、情報操作されてるからなのだ!」といった情報が提供されることで、「実は中国や北朝鮮がマスコミを操っているのだ!」という陰謀史観が蔓延することになってるわけです。これは一見非常にファナティックな意見のように思えますが、あながち否定しきれないことはないんです。
首:えっ。
矢場:つまりですね、テレビなどでは視聴率欲しさにセンセーショナルな部分をクローズ・アップした報道がなされたりして、情報が偏る傾向にあるのは確かですよね。あるいは「原発タブー」とかスポンサーの影響によるバイアスも実在するわけです。そういうところで「既存のマスコミが信頼できない、広告収入を基にしないインターネットでは正しい情報が得られる」という錯覚が生まれる余地があるわけです。
首:んー・・・。続けて下さい。
矢場:しかし、広告収入がないということは、必ずしも情報のバイアスがないことを意味しません。例えば昔「噂の真相」という雑誌があって、これは広告収入がなくタブーもないメディアとして有名だったんですが、「タブーがない」ということは「一般の雑誌に載っていないことが載っているはずだ」という期待が受け手の側にある。センセーショナルなことを書き立てないと売れないわけです。そういうわけで、「噂の真相」にはいい記事もありましたが、芸能人の情事がどうのとか下らない記事もたくさんありました。それが実際に雑誌の売り上げを左右していたのかどうかはわかりません。しかし情報を発信する人と受け取る人との欲望の絡み合いが、情報そのものにある種のバイアスをかけていたことは確かです。そこで話をインターネットに戻しますが、インターネットの情報にも結構強いバイアスはかかっているわけです。「なるべく多く閲覧されたい」「情報をわかりやすく説明して欲しい」「早く伝達して欲しい」という、発信する人と受け取る人の欲望の絡み合いが、情報にバイアスをかける。これを解決するために、インターネットでは、「事実を既成概念に押し込める」という手法が使われます。既成概念というのは、東浩紀のいうところのデータベースです。
首:例を示してください。
矢場:ええと、これは主に2ちゃんねるで「二ダー」と呼ばれるアスキーアートです。

<丶`∀´>

これはネットで朝鮮人とか韓国人に対するヘイトスピーチに使われるキャラクターで、ハングル板(いた)のマスコットです。目が細くてつり上がっていて、顔の輪郭が角張っている。次に「シナー」と呼ばれるアスキーアートを見てください。

(  `ハ´)

これは中国人に対するヘイトスピーチのときに使われます。ラーメンマンみたいで、イメージだけが先行していて、実際の朝鮮人や中国人とは違うわけです。「二ダー」も「シナー」も、意図的に悪意をもってカリカチュアライズされた台詞を喋らされます。朝日新聞アスキーアートもあります。これは「アカヒ」と呼ばれています。瓶底眼鏡をかけている。

(-@∀@)

首:こういうキャラクターは何か、小説とか漫画とか、物語に出演してくるわけですか? 「嫌韓流」みたいな?
矢場:普通に掲示板の書き込みの中で登場します。このキャラクターが「反日的」な台詞を喋るわけです。
首:へっ。それは誰が書き込むの?
矢場:もちろんその板の住人ですよ。例えば、「朝日新聞の紙面に南京大虐殺について生き残りの人の証言が掲載された」という事実があったとして、それを報じるスレッドがあったとします。そうすると誰かが「シナー」とか「アカヒ」とかを登場させて、「アカヒを利用して小日本からもっと賠償金を貰うアル」と喋らせるわけです。するとそれに呼応して他の人は「けしからん」と言うわけです。
首:なんで? 別に新聞にはそこまで書いてないわけでしょ?
矢場:いや、「アカヒ」は「反日イデオロギーを持ったマスコミ」というキャラクターなので、自動的にそうなるわけです。「朝日新聞は左翼である」とか、「毎日は変態である」とか、「日教組極左である」とか、「中国や韓国は日本に賠償ばかりを求めている」とか、「台湾は親日である」とか、「南京大虐殺はなかった」とか、あらかじめ価値判断を埋め込まれたデータベースの情報があるんです。データベースに事実が当てはめられることで・・・
首:わかった。それで自動的に「中国からの工作を受けたところの朝日新聞が、日本に賠償を払わせる反日工作をしている」というアノテーションがつくわけだ。なんだそりゃ。じゃあネット右翼が糾弾しているのは現実に存在する中国や朝日新聞ではなくて、その「シナー」とか「アカヒ」というキャラクターを糾弾しているわけじゃないの?
矢場:ズバリその通りです。そしてそのキャラクターはネット右翼自身が自分たちの脳内で作り出したものなんです。在特会がネットを中心に活動しているのは、こうしたデータベースのパーツを再生産し利用するためなんです。
首:マッチポンプ
矢場:自作自演。


矢場:もうひとつ興味深い現象を挙げましょう。「ブログ炎上」です。
首:それは知ってます。未成年のアイドルが煙草を吸ったとかお酒を飲んだとか、そういう些細なことに敏感に反応して集団で書き込みをするあれですね。あれはなんでなんですか。2ちゃんねるとかで「みんなで書き込もう」とか申し合わせるわけですか。
矢場:ブログに誹謗中傷を書き込むことを「凸」(とつ)といいます。まず誰かが攻撃対象にふさわしそうなブログを発見すると、そのアドレスを掲示板に書き込んだり内容を抜粋したりするわけです。これをを「さらす」といいます。そこで「間違っても凸なんかするなよ。いいか、絶対にするなよ」と書き込むわけです。ダチョウ倶楽部のネタなんですが、これは凸しろという前フリです。ちなみに電話番号を晒して実際に電話をかけることは「電凸」(でんとつ)といいます。
首:わりと軽いノリでやるわけですね。それにしてはけっこう強い言葉が書き込まれるように思うんですが。
矢場:そこはそれ、2ちゃんねるの中ではけっこう強い言葉が日常的に使われていて、普通の会話でも、知らない人が見たらまるで罵り合っているようにしか見えないような状態になわけです。「氏ね」とか「マジキチ」とか。だからどういうふうに書けば相手を傷つけるような効果が出るのかはみんな常識的として知ってるわけです。
首:嫌な常識だなあ。それでもね、よくわからないのは、なんでそんなことをするんかということです。芸能人が煙草を吸おうがどうしようが、別に自分に被害があるわけでなし、どうでもいいんじゃないですか?
矢場:芸能人の場合には二通りの解釈が考えられると思うんです。ひとつは、アイドルに煙草なんか吸わない清純なイメージを抱いて、CDだのポスターだのたくさんのお金を注ぎ込んできた人が、裏切られたような気がするということです。
首:ああー。でもそれは幻想持ちすぎなんじゃない?
矢場:いや、でもアイドルは商品なんだから、そもそもの初めから物象化して現前するわけでしょ。それでみんな幻想を買うわけだから。そういえば「かんなぎ」という漫画があって、ヒロインが処女ではないということが明らかになると、その漫画のファンが怒って漫画をビリビリに引き裂いた写真をアップロードしたりするということもありました。金返せと。
首:うーん。それはもうどうコメントしていいのかわかんない。
矢場:ふたつめは、有名人を引きずり下ろすことで、無名の人でも簡単に全能感を持つことができるということです。
首:それは共感はしないけど理解はできる。前回の対談でみんなが喪失感を持っているという話をしたけど、それが満たされるわけでしょ。でもその二つの解釈は有名人が対象ってことでなきゃ意味をなさないじゃないですか。それじゃあ、有名でも何でもない人のブログが炎上するのはなんでだろう。見知らぬ未成年が煙草を吸っていたからって、まあそれ自体はよろしくないことではあるけれども、見知らぬ人のことなんだから自分に害が及ぶわけでもないでしょ。なんでそんなにヒステリックに怒るのかがわからない。その負のエネルギーはどこから来るんだろう。攻撃する行為自体に快楽を感じてるんじゃないかなあ。水平暴力。
矢場:ここから先は推測なんですけれども。
首:ん。
矢場:倫理のあり方がデータベース化しているんじゃないかと思うんです。データベースを参照するということは思考停止であって、思考停止というのは他者とか外部に判断を委ねることに他なりません。それは自らのうちに責任を認めない。
首:うん。
矢場:ブログ炎上とは自分の利害のために糾弾するのではなくて、他者のために糾弾すること、他者になりかわって他者の利害を代弁する糾弾です。想定されているのは、当該の未成年の喫煙によって被害をうけるかもしれない任意の人です。存在しないがゆえに語ることができないところの架空のサバルタンを代弁して糾弾する。他者とは存在とは別の仕方であるところの無限です。だから代理糾弾は神になりかわって行うところの絶対的な裁きです。つまり、ブログ炎上とは無名の人々が神になりかわって裁きを行う代理糾弾であって、それゆえ容赦することも妥協することもない絶対的な攻撃、剥き出しの暴力になるわけです。
首:マッチポンプ
矢場:自作自演。

4
首:実際には存在しないところの架空の「日本」が、実際には存在しない「二ダー」や「シナー」によって危機にさらされている。在特会はいわば、神になりかわって、そうした架空の「反日勢力」を代理糾弾する。
矢場:どうしたらいいんでしょうね。
首:「それはレイシズムだ」とか「それはショーヴィニズムだ」とか言ってもあんまり効果ないですね。頭の中で自己完結してるわけだから。
矢場:こっちも桜井誠とか西村修平アスキーアートにする?
首:それは違う。構造を逆手に取るんじゃなくて、構造そのものを解体するように持って行かないと。ありのままのものをありのままのものとして理解するというプロセスが必要なんじゃないですか。現実を見ないと。
矢場:でもありのままのものを理解するって何でしょう。僕たちは大なり小なり何かしらイメージを適用することで現実を把握してるんじゃないでしょうか。科学とはそもそもの分類することだったわけでしょう。概念装置を使って現実を把握する。それ自体は本当に否定しきれることなんでしょうか?
首:挑発的な議論ですね。ちょっと考えていいですか。
矢場:うん。
首:・・・思考停止しないこと。他者に判断を委ねないこと。自らを問い続けること。
矢場:うん。
首:マルクスヘーゲル批判の核心は、弁証法の史的展開をプロイセン国家で止めてしまった、つまり世界精神の最終的な形態が現在の社会に受肉したと認めてしまったという所にあると思うんです。そうなると歴史はそこで終わる。それは思考停止です。同じ事がロシア革命でもありました。ボルシェビキは権力を獲得した時点で自分自身をアウフヘーベンすることを止めてしまった。トロツキーはそれに対して永久革命論を持ち出すことで批判したわけです。ただしトロツキーはプロレタリア国家はまだ到来していないという言い方をしていて、僕はその言い方はちょっと違うと思うんです。マルクスの革命理論はヘーゲル弁証法です。ブルジョアとプロレタリアは相互に排除しながら現れる資本主義社会の別の側面です。プロレタリアはプロレタリアとしての自分自身を死滅させないといけない。その後も弁証法は永久に展開され続けなければいけないわけで、動きを止めてしまったら最後、ヘーゲルの観念論的弁証法のように、自分自身に対立するようになる。つまりマルクスヘーゲルの理論をヘーゲル自身に適用して批判をおこなうわけです。
矢場:うん。
首:現実を把握するプロセスに対する不断の問いかけが必要だと思うんです。われわれはともすれば公式にあてはめるように、憲法は守らなくちゃいけないとか、軍隊は悪いものだということを言ってしまいがちです。それは確かにそうなんだとしても、なぜ憲法を変えちゃいけないのか、軍隊はいらんのか、新しい世代の若者に改めて問いかけられたとき、その時々の状況に応じて一緒に考えていかないといけない。これは決して前衛党がイデオロギー注入をもっとしっかりやらなきゃいかんという意味ではないですよ。新しい世代の若者という他者が到来したとき、応答‐可能性のなかに自らの身体と言葉を置いて応え、共に歩んでいけるのかという問題です。問われているのは私たちです。その不断の努力を怠ってきたツケが、在特会の台頭という形で現われているんと違うかな。
矢場:前衛党が必要だっていうのはもともとはマルクスの理論じゃなくてレーニンが言い出したんですよね。帝政ロシアのものすごい弾圧の中でなんとか活動をするために、それがマルクス主義の原理から逸脱していることを知りながら、敢えて前衛党論を唱えた。レーニンはしばしばこういう原理からの逸脱をやらかすことでピンチを切り抜けて、最終的には権力奪取に成功する。そういう意味では非常にプラグマティックですね。
首:そこなんだけどね。最近「ボルシェヴィキによって歪曲されて伝えられてきたところのマルクスは本当は何を言っていたのか」という研究者がいますけど、あんまり意味ないと思うんです。スターリンレーニンを歪曲した。レーニンエンゲルスを歪曲した。エンゲルスマルクスを歪曲した。しまいには後期のマルクスと初期のマルクスを分断して、真実の、歪曲されない純粋無垢なマルクスを探そうとする。こんな読み方は全く無意味です。
矢場:続けてください。
首:レーニンはしばしば自分の論敵を「マルクスの言ってることとは違う」と言って非難したけれども、それは基本的にはその論敵が「自分たちの意見こそが正当なマルクス主義なのだ」という言い方をしているから、その文法を論敵自身に返してるからだというふうに感じます。レーニンマルクスが実際に何を言っていたかについて聖書学者のような興味を持っていたようには思えません。どっちかというと、内容の豊かな本だったりすると、自分と書物とが対話するみたいに深く読み込むことのできるものありますよね。そういうものとして読んでいるように感じます。レーニンの時代にはマルクスの遺稿はまだ全部整理されてませんでしたけど、レーニンマルクスエンゲルスがどんなふうにヘーゲルを批判し継承していったのか、その著作を読んである程度のヒントを掴んだあと、実際にヘーゲルの「大論理学」を批判的に読み込む体験をする。マルクスの息づかいを感じ、自分の思想をつかみとってるんです。レーニンの勉強ノートっていうのが残ってるんですが、これを読むとその真摯な姿勢がよくわかります。ソ連の抑圧的な政治をスターリンとかレーニンの責任にして自分たちを切り離して安全圏に置くような、そういう思想のあり方は、それこそマルクス主義的ではないです。マルクスは皆がヘーゲルを崇拝していた頃に批判し、皆がヘーゲルを「死んだ犬」みたいに扱った頃に自分はその弟子だと主張しました。そうだとすれば、これは極論かもしらんけど、今こそレーニンを、スターリンを読まないといけない。
矢場:それは極論。
首:本当に? 矢場さんはスターリンを読んで、その上でスターリンは悪いって思ってる?
矢場:読んでない。
首:読む必要もない?
矢場:うーん。単純に、政治的にはスターリン金正日もおんなじで、駄目に決まってるでしょ、と思う。
首:そう? グルジア語で、グルジア人に向けて書かれたような、外国の革命思想をいかに噛み砕いて自分たちの民族の問題として考えて、時には「革命的プロレタリアート」のあり方を痛烈に非難した、情熱に燃える若いスターリンの著作も読む必要がない? 僕はそうは思わへんのです。生きてるうちは全肯定され、死んだあと全否定されたスターリンは、実のところ未だ誰にも読まれてない。読みもしていないものを、自分たちとは無関係の思想だとシラを切ることはするべきではない。歴史の間違った部分を、まるで他人事のようにシラを切り続ける、そういう態度を続ける限り、つまるところ歴史を「阿呆の画廊」(ヘーゲル)に置くことになる。
矢場:なるほど。首さんの意見に全部賛成するかどうかはちょっと保留しときますけど、言いたいことは納得です。在特会的な思考パターンに僕たち自身も陥る危険性があるってことですね。
首:そうです。
矢場:在特会を批判するのに、彼らに正面から反論するのはあんまり意味がない、彼らと同じ議論の枠組みで反論するのは意味がないという話をしましたよね。私たちはその枠組みそのものを問いに付さんとあかんのです。そやとしたら、あらかじめ価値判断を埋め込まれた情報とか、そういうのをこそ拒否していかんとあかんのやと。わかりきった正義にしがみつくんではなくて、常に自分自身への問いとして立ち返り続けること。
首:レーニンマルクスを読んだ時のように、あるいは、スターリングルジア語で語った時のように、と付け加えてね。それではじめて僕たちの運動はレーニンとかスターリンの悪い部分から脱却できるんです。
矢場:うん。
首:今回はちょっとマニアックになりましたね。いま過去の左翼運動が袋小路に入って、明日の生活にも不安を感じる状況になっている。そこへショーヴィニズムの台頭です。私たちはどう考え、どう行動するのか。問われているのは私たちです。マルクスが1848年の革命の敗北を総括した文章があって、その冒頭が非常にいい文章なんで紹介します。

 わずかに数章の例外はあるが、一八四八年から一八四九年までの革命年代記の比較的重要な各編はみな、革命の敗北! という表題をもっている。
 これらの敗北において滅んだものは、革命ではなかった。滅んだものは、まだ激しい階級対立をとるほどに先鋭化していなかった社会関係の結果である革命以前からの伝統的付属物――すなわち、二月革命までは革命党がふりすてることができないでいた、人物や幻想や観念や計画であった。そして革命党は、二月の勝利によってではなくて、一連の敗北によってのみ、それらのものから解放されえたのである。
 一言でいえば、革命は、その直接的な、悲劇的な諸成果によって、その前進の道をきりひらいたのではなく、逆に、結束した強力な反革命を生みだしたことによって、つまり、それとたたかうことによりはじめて転覆の党がほんとうの革命党に成長することができるところの一つの敵をつくりだしたことによって、前進の道をきりひらいたのである。
「フランスにおける階級闘争」MEW7、原p.11

反戦生活夏のアピール

2009年8月24日と25日、反戦生活は夏のアピールをおこないました。

24日は草津駅前で、25日は山科駅前でそれぞれ一時間ほどですがビラをまきました。総選挙直前、戦争をこれ以上させるわけにはいかないと思っています。「格差」や「貧困」といった現実をどう乗り越えるのか?というときに、その答えは決して戦争ではないと思うからです。だから私たちは、生活の問題と反戦の問題は一緒に訴えています。

ビラの文章は以下です。


悪いことばっかりしやがって。もう戦争させないぞ。

■私たちは戦争に反対しています!
2008年、57年ぶりの衆院再可決によって再開された自衛隊の米軍への給油は、アフガニスタンイラクで続いているアメリカの攻撃に加担している。「テロ」に対する恐怖が叫ばれている。その恐怖をあおって日本各地に配備されているミサイル防衛システムと、沖縄に建設されようとしている米軍基地は、北東アジア地域の軍拡競争を激化させている。アフガニスタンイラクで多くの民間人が殺されてきたが、いまだに平和は訪れていない。さらに着々と自衛隊は海外派兵されてきた。現在は、海賊対策の名目でソマリア沖に自衛隊が派兵されている。私たちに必要なのはアメリカの戦争協力と海外派兵ではなく、平和のための自衛隊の撤退だ。

■暮らしはいかがですか?
私たちは平和を求める。それは戦闘機や軍艦を、数えられないくらいゼロのつく金額で購入して「日本を守る」じゃなくて、私たちの暮らしを守ることだ。軍事費の裏側では、障害者自立支援法が成立し、生活保護母子加算は廃止され、社会保障費削減の方針のもとに生活が切り崩されてきた。定額給付金が出たり、これから子どもへの援助は増えるらしいが、それだけじゃ足りない。今すぐ戦争参加をやめて、暮らしと福祉に税金を使うべきだ。生活不安は軍事力では解決できない。

■私たちは声をあげる。私たちは武力による平和は嘘だとはっきり言う。私たちは、社会的弱者をいじめることによってではなく、ともに権利を要求しあうことで生きのびよう。

戦争反対!
自衛隊は撤退を!
軍備と軍事費の廃止を!
米軍基地はいらない!
生活と福祉に税金をまわせ!

反戦と生活のための表現解放行動

夕日のなかの草津駅と、そして反戦生活ビラ。


kg

移住労働者映画祭

posada2009-07-08

外国籍住民への負担を増やし、監視を強化し、さらに一部の外国籍住民を社会から完全排除するなど数々の問題が指摘された改悪入管法が、十分な審議がなされることなく、7日の参議院法務委員会で可決された。

ここ何回かの「反戦生活」ブログ記事がとりあげたことも、外国人を潜在的犯罪者とみなす社会を作ってはいけないということだ。



韓国では今月、移住労働者映画祭が行われる。
公式のホームページ(http://www.mwff.org/ 韓国語)には、英語版もある(http://mwtv.or.kr/ff2009/index_eng.html)。
ポスターがこれだ。

「チャンポンがいい」




上映される映画は以下のようなものである。ホームページより、引用者訳。

「蝶の歌」
新しい生を探し、見知らぬ国へ移住する女性たち。
かのじょらは、移住労働者の中でも、たやすく除外される少数者たちだ。
とりわけ韓国社会のあちこちに存在する国際結婚による移住女性たちは、家のなかに立ち込められ、家の外と疎通することすら難しい場合が多い。
自身の声を外へ出すことが不可能な現実。
しかしかのじょらは、蝶のように声なく歌を歌っている。
「蝶の歌」では、かのじょらの軟弱ながらにも、自由な仕草に耳をかたむけてみる。




「影の人」長編、短編
すでに全地球的な流れになった移住。しかし移住労働者たちは、いつも見えない影のような存在だ。同じ空間の中に生きているが、かれら/かのじょらの生は、絶対にさらけだされない。見えない存在のように日々排除されている人たち。「影の人間」は、移住労働者の労働、人権、社会、愛、文化をこめた映画を通し、息をする人間としての移住労働者を描こうとする。




「新しい世界を描く子どもたち」
移住によって多文化家庭が多くなり、多文化家庭の子どもたちも同様に増加している。
かれら/かのじょらは、前の世代とは違った考えと文化を持っている。移住民でも、原住民でもない新しい世代の子どもたちが見せてくれる生の現実、これは移住民の「未来」それ自体でもある。目の前で繰り広げられた多くの日々を多彩な生の模様を満たしていく多文化家庭の子どもたち、「新しい世界を描く子どもたち」では、かれら/かのじょらの姿を通し、移住民の未来と希望を見ようとする。




「移住の視線 ― 国内移住民、直接制作」
UCCの登場によって、誰でも自分の映像をつくり、さらに多くの人たちと疎通できるようになった。数多くの機関でメディア教育がなされ、あるいは多くの映画祭が開かれているが、社会的少数者である移住労働者が直接映像を制作し、自分たちの話をしようとすることは、簡単なことではない。このような状況において、外部の視線ではない移住民自身の視線で、かれら/かのじょらの生を見つめる作品をつくるということ、そしてそれを通して観客たちと疎通するということは、なによりも大切なことだ。「移住の視線」では、かれら/かのじょらの生をうかがってみよう。これは、あなたの生をしっかりと見つめることでもある。

そして、特徴はやはり、安山や富川、天安というような、外国人労働者が多く住む地域でも映画祭が行われるということだろう。


もちろん、私を含め、このブログを見ている人で、直接会場に足をはこべる人はほとんどいないと思うが、外国人差別の激しい韓国でも、外国人労働者を排除せずに自分たちの現場でともに生きていこうという運動があることを紹介してみた。

なお、主催する「移住労働者の放送MWTV」は、日本でさいきんよく紹介されている「研究空間スユ+ノモ」と同じ場所にあり、「スユ+ノモ」のフロアの一室が、MWTVである。



kg

首猛夫×矢場徹吾「対談・排外主義に抗する」

首:どーも首猛夫です。
矢場:矢場徹吾です。
首:われわれはなんでこんなペンネームなんですか。
矢場:自同律の不快とか、そういうことです。ググってください。
首:講談社から怒られませんか。
矢場:ごめんなさい。
首:そういうわけで首と矢場の対談コーナーです。今回も飲んでます。
矢場:今回は赤ワインですね。カナート洛北の地下の酒屋で買ってきた、パックに入ったやつです。チーズとレーズンをつまみにすると非常に旨いです。
首:われわれは地域密着型の情報をお伝えします。
矢場:輸入物ですよ?



首:今回はショーヴィニズムについてです。
矢場:ショーヴィニズムと在特会をイコールで結んでもいいんですか? 厳密には・・・
首:彼ら自身の主張では、自分達は違うと言ってますね。そこにショーヴィニズムの現代的な展開の一つの特徴があると思います。
矢場:ええと、僕は日本国籍を持つ日本民族の社会で生まれ育ちました。日本人の名において外国人排斥をする人々がいる、というところでは、やはり「連中と一著にされたくない」という想いが強いですね。
首:僕も矢場さんの想いには同感です。しかし、ショーヴィニストのヘイトスピーチを目の当たりにするにつけ、日本人であるとか、そうではないとか、そういうカテゴライズには抵抗したいとも思うんです。個人に国籍を刻印していく作業が、そもそもショーヴィニズムの思考の根源にあるわけでしょう。排外主義のメカニズムは「想像の共同体」を作って、それによって同時に異分子を排除していくというものですよね。つまり自分たちの好きな理想像としての「日本」という枠を空想のなかで作り上げて、それからはみだすものを「反日」として切り捨てていく。そこで切り離せない作業が、「自分は日本人である」という宣言です。
矢場:ああ。それはそうですね。自分を排除する排外主義はない。「日本」および「日本人」と自分自身とを同一視していないと排外主義は成立しない。でも、ショーヴィニズムに抗するという場合には、さしあたって自分が国籍にカテゴライズされているという事実は引き受けていくべきだと思うんです。
首:ええと、それはつまり、自分が差別する側に立っているか、差別される側に立っているかということですか?
矢場:ここは厳密に考えていきましょう。いいですか。国家というシステムがあります。そのシステムは法律とそれに服従する国民とを必要とすることで成立しています。そこで法律の内部に安住することのできる国民と、そこから不断に排除され続ける難民が発生する。在特会は「外国人を排除しようと言ってるのではない、犯罪を犯した外国人を排除するのだ」という論法を使いますよね。ところが、在日外国人をめぐる問題は、彼らが不断に法‐外に排除され続けることで、国民のカテゴリーから排除され続けることで生じているんです。そうだとすれば私たちは法の内部に置かれる者として、法そのものに異議申し立てをしていかなければならないと思います。法というのは絶対的なものではなくて、様々な意見とか様々な立場の人がいて、そういう人たちの意見のせめぎ合いの中から合意形成されたものにすぎません。その合意形成に関わる存在という意味において、私は自分自身を「日本人」であると位置付け、そこから発言します。
首:それは法の外部に置かれている限り異議申し立てはできないことですか?
矢場:もちろん外部からの批判の可能性を否定するつもりはありません。ただ、それだと異議申し立ての意味が変わってきます。法が国民を措定すると考えるか、国民が法を措定すると考えるか。さしあたって自分は法の内部から、法を構成する国民として、法そのものに異議申し立てをしていきたい。私自身が運動を始めようとするとき、結局そこからしか始められないと思うんです。
首:それならわかります。問われているのは在日外国人ではなく、ショーヴィニストでもなく、私たち自身なんですね。
矢場:そうです。僕が日の丸を糞喰らえと思うのは、かつて日本は日の丸の印の下に植民地化と侵略とを行った歴史があるということ、そしてそのことに無批判であるままに、無邪気にその同じマークを背負い続けるという行為に対する嫌悪感です。
首:だから日の丸がうんこなんですね。
矢場:うんこが日の丸なんです。
首:ニャンコが日の丸というのもそうですか?
矢場:それはニャンコが日の丸なんです。
首:するとだんごが日の丸というのは、日の丸がだんごなんですか?
矢場:何を言ってるんですか。
首:えっ。
矢場:あっ。



首:排外主義者の主張をみていると、彼らが自分自身のアイデンティティを「想像の共同体」としての「日本」に投影して、自己肯定するプロセスがあるというところを指摘したいと思います。欠けているものを埋め合わせる作業としての、失われたものを再生し、自分を癒すための物語として排外主義がある。自己肯定するプロセスそれ自体を批判してるのではないということに注意してください。言うなれば、僕たちだって運動の中に自己肯定を求めているわけですから。ナショナリズムやショーヴィニズムが、ある種の「癒し」として機能しているということは非常に興味深いですね。彼らを含め、私たちは傷ついている。それがなぜかといえば、僕たちの見解では、新自由主義の段階に立った資本主義が、人と人とを分断し、孤立させ、貧困化させているからです。子供の頃には頑張って勉強すれば普通に会社に就職できて、普通に幸せな生活を送ることができると教え込まれていた時代がありました。しかし現実はそうではない。いくら頑張ったって普通の生活を送ることが困難な社会になっている。大学を出たってフリーターになるしかない。ようやく就職先を見つけたところで、仕事は昔に比べてハードになっているし、残業時間も多い。収入も昔ほどではありません。それだけじゃない。人と人との繋がりも希薄になってます。アパートの隣の部屋にどんな人が住んでいるのかもわかんない。隣人同士助け合うなんて、昔はあったかもしれないけれど、今はそんなのありません。「なんでこんなに節約せなあかんねん」というちっぽけな呻きが僕たちの出発点です。そこで僕たちは資本主義のシステムそのものに異議申し立てをする。資本主義のシステムを維持している国家に、政治に、法に異議申し立てをする。同時に、一緒にサッカーで遊んだり、読書会をしたり、映画をみたり、飯を喰ったり、議論し合ったり、慰め合ったり、愚痴をこぼしたりしながら、新しい生き方を、新しい社会を、模索しようとしているわけです。ええと、ちょっと長く喋りすぎてますけど、いいですか?
矢場:続けて下さい。
首:ありがとう。続けます。在特会の発言をみていると、まるで在日外国人さえいなくなれば自分達は幸福になれるんだと言わんばかりです。実際、彼らは「戦争犯罪の賠償金を支払うぐらいならそのお金を日本の失業者救済に充てるべきだ」といった類の発言をしています。これは驚くべきことです。新自由主義の段階に立った資本主義国家において、失業者を救済するなんて実際にはありえないことです。これは皮肉などではなくて、本質的な問題です。デイヴィッド・ハーヴェイの指摘によれば、新自由主義は、資本が成長することで「トリクルダウン」が発生するという。つまり、大企業が儲かることで労働者にも分け前が「滴り落ちてくる」という言い訳を担保にして、社会的合意を獲得し、資本主義を構造改革していくわけです。日本では初期の頃には「外圧」に屈する形で新自由主義が導入されてきました。中曽根臨調や橋本行革がそれです。それが小泉の時代になって一変した。あたかも郵政事業を民営化すれば景気が良くなって生活が豊かになる、という社会的合意を形成して、新自由主義政策を推進した。そのあとに訪れたのは「いざなぎ景気」を超えるといわれる長期好景気です。これは多国籍企業に莫大な利益をもたらしましたが、しかし私たちの生活は一向によくならなかった。昨年八月に北海道洞爺湖でG8サミットが行われ、新自由主義政策を今後も推進していこうという国際的な合意形成が行われました。この新自由主義政策の国際的な潮流に対し、世界中で「グローバル・ジャスティス」運動が盛り上がっています。膨大な人数の人々が今の資本主義の潮流に対し、国際的な連帯でもって異議申し立てをしています。何万もの人々がデモを行い、労働争議が起きています。ところが日本では・・・
矢場:何万もの人々が自殺している。こんな状況は誰も望んでいないのにね。僕は通勤電車が止まるたびにひどくやりきれない想いに駆られます。また一人の人が命を落としたのかと悲しく思うと同時に、自分が仕事に遅れてしまって困る、あるいは早く帰って眠りたいのに困る、という苛立ちです。人としてはまず悲しむことが正しいんでしょうね。でも苛立ちのほうが先に来る。そこで、「もし」という別の自分自身を空想します。もし自分に反戦生活の仲間がいなかったら、仕事だけに生き甲斐を見いだして、それに押しつぶされていたら、もし自分がたった独りならば、もし自分がもうちょっと弱かったら、車輪の下にいるのは自分だったかもしれない。そのことがひどくやりきれない。そしてまた、べつの「もし」を空想します。もし労働組合や左翼政党がもっと効果的に機能していたら、こんな社会にはならなかったんじゃないか。でもそうはなっていない。これが明け方なのか夕闇なのかわからないけれど、つまるところ自分は昼と夜との中間にいて、ふらふらと、どちらに転ぶのかわからない暮らしを送っている。グローバル・ジャスティス運動が海外で盛り上がってると言われても、正直ピンと来ないわけです。



首:確かに日本の労働組合や左翼政党は健全というにはほど遠い状態にあります。でもそれは海外の労働組合や政党だって同じです。例えばフランスの現代思想、例えばアルチュセールでもドゥルーズでも、フランス共産党の状態に対する異議申し立てから、どうやって新しい運動を創造していくかという提言の中から生まれてきたものです。日本ではフランス現代思想ニューアカを経由して輸入されてきましたから、政治的な色合いは、意図的にかどうか知りませんが、脱色されていますね。だから難しくてよくわからないと感じる。知識人のオモチャになっている。日本では、左翼運動は七〇年安保闘争以降どんどん右肩下がりになってきて、一九八九年を境目に一気に衰退しました。九〇年代は政治的空白の年月です。そのあとアメリカの反テロ戦争があって、それまで本当に政治に興味のなかった若者たちが反戦運動に参加し始めた。歴史的な経験の蓄積から分断されたところから始まった、ゼロからの出発でした。だから過ちもたくさん犯した。議論を交わしていて、七〇年代の古い資料をふと読んだら、自分たちが今議論していることがとっくに議論しつくされていて愕然とする。海外の状況と見比べると、本当にひどいものです。例えばパリの五月革命の学生ダニエル・コーン・バンディが欧州緑の党で重要な立場になってたりするでしょう。じゃあ、あの時代、世界で最も大規模で激しい行動を行い、世界中の学生たちを勇気づけた日本の学生運動を担った世代の人々、日本の全共闘世代がなにをやってるのかというと、いわゆる団塊の世代に当たる人々ですが、あたかもそんな時代があったことを忘却しているかのようにさえ見える。歴史が断絶している。
矢場:連合赤軍事件は相当な衝撃だったんでしょうね。まあそのあたりは、その時代を生きた人たちにちゃんと語ってもらうのが一番いいかもしれません。ただ、経験というか、教訓のようなものは継承していかなくちゃいけないと思います。連合赤軍事件についてはずいぶんたくさんの記録が残っていて本当に良かったと思うんですが、例えば僕が連合赤軍事件の記録を読むときに感じるのは、正しい存在になろうとする、その執着の異常さです。人間誰だって過ちは犯すし、僕だって今後も間違いを犯さないとは言えない。ひょっとしたら誰かを傷つけてしまうこともあるだろうし、間違ったことをしてしまうかもしれない。でもそれが人間ってものでしょ。以前インターネットで「反戦」と名の付く団体がリストアップされて、「お前達は普段から反戦だの平和だの言ってるが、チベット問題については何も言ってない」と批判されるということがありました。われわれ「反戦生活」も「反戦」というキーワードでひっかかって、名だたる反戦団体と一緒に批判されたんですが(笑)、いや、そのときはわれわれみたいな弱小団体が有名になって当惑しましたけど。
首:僕はチベット問題については不勉強だったなあと思いましたよ。
矢場:それはそうですね。ただ、それ以上に嫌だなあと思ったのは、中国を批判しないという点において他の団体を批判する、という、その行為の傲慢さです。争点というのはいろんなところにあるわけで、全部をやるわけにはいかない。フリーチベットの人たちが僕たちを批判したとき、じゃあお前たちはパレスチナについて何をやってきたんだと言い返すこともできたわけです。日本国内で失業率が高まっているという問題について、あるいは国内の野宿者問題についてお前たちは何をやってきたんだと言い返すというやり方もあったんです。でもそれは言っちゃいけない。絶対に。自分がどこまでパレスチナ問題について関われたのか、野宿者問題に関われたのか、自分とは違う生き方をしている人々の闘いとどこまで連帯できたのか、つながりあえたのか。そのことを内省していくと、他人様のやってることを批判するなんてできないですよ。誠実であろうとするがゆえにそういう揚げ足取りのような批判に沈黙してしまい、運動から離れていったかもしれない人々を想うとき、やっぱそういうことをやっちゃいかんなと。それををやったら内ゲバになっちゃうなと。自らの正しさを担保して他人を批判する傲慢さ。それはつきつめていくと連合赤軍みたいになっちゃう。だって絶対的に正しい人なんていないし、究極的な真理なんてものもないんだから。
首:正義と真理の問題についての思考といえば、それこそ人類の哲学の歴史そのものですよね。在特会は「自分たちは外国人排斥じゃなくて法律に違反した外国人を取り締まれと言ってるんだ」と、そう彼らは言うでしょう。法律と正義との問題について真剣に考えたらそんな薄っぺらいこと言えやしませんよ。
矢場:単純なんですよ。だからわかりやすい。だから恐ろしい。今回僕たちは在特会の京都デモに抗議する行動に取り組みましたけど、三つの意味があったと思うんです。一つは、在日外国人たちに「あなたたちは孤立してなんかいない」と呼びかけることです。一つは、在特会の言葉に騙されてショーヴィニズムに取り込まれてしまう人々に語りかけることです。そして最後の一つは、ショーヴィニズムを生み出してしまった日本という社会を構成するところの、私たち自身への自問、自らへの問いかけです。在特会の主張をみていると、ものすごいルサンチマンというか、屈折した感情があるように思えます。それはわかるんです。僕も屈折してますから(笑)。在特会の京都デモへの抗議行動はYouTubeでもニコニコ動画でも見ることができます。とりわけ2ちゃんねるニコニコ動画のコメントを見てると、あいつら左翼は動員されてるんだとか、給料出てるんだとか、日本は実は左傾化しているんだとか、そういう奇妙なコメントを目にします。その中でもっとも屈折してるなあと思うのが、日教組への批判ですね。ものすごい極左団体だと言われている。僕は、いわゆるネトウヨというのは、たぶんすごく頭が良くて、それでいて学校のシステムからドロップアウトしている高校生ぐらいの若者たちなんじゃないかと想像しています。だから教師や団塊世代へのルサンチマンが強い。
首:矢場さんはインターネット見過ぎですよ。2ちゃんねらー
矢場:ねらーとニコ厨とは厳密には違うんですが、その解説は論旨から外れるので、誰かがコメント欄とかに書いてくれるのを期待しましょう。ええと、ちょっと「国民が知らない反日の実態」というサイトをみてみましょう。この中のコンテンツに「反日勢力リスト」というのがありますね。ちょっと見て貰えますか。
首:これは在特会のサイトとは別物ですね。あれ? 反日勢力「綺麗事保守」というカテゴリーがあるんですね。その他にも自民党議員のリストアップ、政府機関、警察庁も入ってますね。マスコミでは読売や文藝春秋も入ってるのはなぜだろう。電通に日経連まで載っている。これはすごいなあ。愛国者の人たちは敵が多くて大変ですね。反日民間団体に反戦生活が入っていないのは、私たちの力不足ということでしょうか。
矢場:なにか連想しませんか。
首:ううーん。昔の左翼の思考パターンを連想してしまいますね。自分たち以外はみんな間違っているという。「綺麗事保守」というのは、保守でありながらショーヴィニズムを否定する人たち、ということだと思うんですが、これは一歩間違えれば主要打撃論とか連合赤軍的な思考パターンに転びかねないなあ。正しさを追求することに腐心するようになると身内の中に敵がいるんじゃないかという疑心暗鬼に駆られてくる。
矢場:ところが彼らは既にそこを出発点にしてしまってるわけです。つまり、朝日新聞やTBS、護憲団体、市民団体、フェミニスト日教組などをつうじて、日本を中国や北朝鮮に売り渡そうとしている、という世界観です。だから彼らは日本は既に左傾化していて、それを「普通の国」にしようと、そう言ってるわけです。
首:朝日新聞やTBSが左翼って、馬鹿馬鹿しい。マスコミが仮にリベラルなことを言ってるように見えるとしても、それは経営戦略以上のものではないです。彼らは企業ですから。資本主義のシステムがどういうふうに絶対的および相対的剰余価値を生み出しながら労働者を搾取していくか、とか、資本がどういうふうに本源的蓄積を行っていくか、とか。国家というのはブルジョアジー剰余価値を生み出すのに必要な事務を引き受ける委員会でしょう。国家が資本主義の発展を牽引していた時代には両者の利害は一致していましたが、今は多国籍企業が資本主義の発展を牽引している時代です。だから今や国家は国民の利益を捨ててでも資本に奉仕する。「蓄積せよ、蓄積せよ、それがモーセ預言者なのだ」。昔の右翼はそのあたりは理解していたように思いますが。
矢場:そういう話にはなりませんね。昔の右翼は転び左翼が多かったから(笑)。僕は在特会ネトウヨの主張をそういうふうにいちいち論駁することにあまり意味があるとは思えないんです。公理系の違う論理は噛み合わない。むしろ論理そのものを問いにふす方がいいのではないかと思います。
首:展開してください。



矢場:靖国神社遊就館は首さんも見学されたことがあるかと思いますが、九段下に昭和館というのがあるのを知ってますか。
首:もちろんどちらも見学しましたが、いちおう説明を。
矢場:昭和時代の、とりわけ戦前・戦後の人々の暮らしの様子が保存されている施設です。ええと、僕が下手に説明するより東京に行ったときに実際に見に行ってもらったほうがよくわかると思います。あまり忖度しすぎるのもどうかと思いますが、遊就館昭和館在特会とかネトウヨと呼ばれる人々の主張に心を動かされる、そうした若い人々の心性を端的に表象していると思うのです。天下国家を論じたり強いものや大きいものに憧れることで自分を大きな存在にしようというのは、右にも左にもどちらにもいたと思うのです。それを表象するのが遊就館です。
首:武器とか飾ってますもんね。で、昭和館の方は。
矢場:ちゃぶ台と千人針が共存している生活が表象されていると思うのです。つまり、現代人は昔の人が持っていた何かをなくしてしまっていると、そういうふうに呼びかけるわけです。それはみんなの持っている喪失感や心の傷、欠落感に訴えかけます。欠落しているものは埋め合わせられなければならない。それがちゃぶ台のある生活です。家族が輪になって食事をし、真面目に正直に生きていれば必ず幸福になれた時代。そこに憧憬を感じた人々が「昭和」というキーワードに惹かれるのではないでしょうか。しかしそのちゃぶ台のある生活の隣には、千人針と血染めの日の丸がある。ここには歴史に対する批判的な視点はありません。というのも、「昭和」は失われてしまった理想郷そのものなわけですから。だから戦争は、あらがうことのできない状況、地震や災害にも似た災厄そのものとして描かれます。しかし理想郷の住人たちは助け合いながら災厄を乗り切り、その果てに平和な今の日本を作り上げる。こうして彼らは自らを発見します。本当に今のこの時代は理想郷に住む人々が求めたものだったのだろうか。自分たちの時代は本当に正しいのだろうか。このように考え、ふと新聞やテレビを見たとき、彼らは強烈な不安を覚える。というのも今の生活のなにもかもが理想郷とは違ってしまっているからです。こうして無意識にちゃぶ台のある生活を再び獲得しようとして、彼らは血染めの日の丸に手を伸ばす。
首:歴史に対する批判的な視点がないというのが興味深いです。それは理想郷に傷をつけたくないから?
矢場:理想郷が理想郷であるためには、そこに悪意は存在してはならないということだと思います。だから南京大虐殺は「なかった」し、従軍慰安婦は「存在しなかった」。歴史は私たちが考えている以上に不安定で多様です。だから彼らは「これこれこういう理屈があるから、もしくはこれこれこういう数字がないから、こんな事件などあったはずがない」という問いを立てるわけです。
首:そこが僕たちとの大きな違いですね。歴史を批判するときには「ありえなかったはずの、もしくはありえないはずの事件が、なぜ起きてしまったのか」という設問から始めるわけですから。つまり、彼らと僕たちとの違いというのは、現在という時代が何か間違っているという認識は同じで、その解決の仕方に違いがある。
矢場:その問いの立て方の違いがすなわち公理系の違いです。ソ連や中国、カンボジアルーマニア、そしてユーゴスラビアの経験から私たちが学んだのは、ユートピアなど過去にも未来にも存在しなかったし、期待するべくもないということだといえるでしょう。むしろ私たちは不幸にも孤立し、憎しみ合っている。聞こえるのは小さな声だけです。「なんでこんなに節約せんとあかんねん」という程度の、か細く、今にもかき消されそうな小さな声です。しかしわたしたちは絶望しません。バラバラにされているからこそ、異なる存在だからこそ、互いに手を伸ばし、理解し合おうとすることができる。それは例えばある階級が権力を獲得したからといって終わるような類のものではありえません。その作業は永遠に終わることがありません。私たちは永遠に理解不可能で、だからこそ歴史は前に進むのです。だからこそ海を越えた人々の声を聴こうと望み、友愛を届け合うことを望むことができるのです。理解し合えないのだから、私たちのしていることが他の誰かにとって正しいのか、正しくないのか、それはわかりません。大切なのは問い続けること。問いを終わりにしないことです。
首:真理の命題はそれが明かされないからこそ真理でありうる、ということですね。
矢場:今回はコメント欄が荒れそうで楽しみですね。理解されないことに可能性を託す立場としては望むところです。
首:インターネット上の署名のない発言については違和感があるんですが。
矢場:等価ですよ。全てのテクストは本質的に記名されえないものですから。
首:つまり実は矢場さんが荒らしている?
矢場:えっ。

6月13日京都、ファシストたちのデモによせて

私は、2009年6月13日に京都市中心部で行われた【ざいとくかい】のデモを見てしまった。この表現で伝わるかどうかはわからないが、正直いうと「きもちわるい」「怖い」行列だった。「外国人参政権反対」という意思表示のデモらしかったが、プラカードに書かれている文言は、在日朝鮮人と韓国人に対する蔑視に満ちた暴言だった。この記事では【ざいとくかい】の一つ一つの主張を分析するよりも、私が感じた個人的な感想を書きたい。

自省もこめて書いていく。私は、「誰かをいじることで仲間と連帯する」ことはしたくない。人と人は様々なかたちでつながるし、様々なかたちで出会う。出会いやつながりの条件が「いじめ」ではありたくない。【ざいとくかい】のデモは、「韓国」や「朝鮮」に関係する人を蔑視することを条件に成り立った集団だった。多くの人は、時給なり残業なりセクハラなりパワハラなどなど、生きていく上で様々な条件を課され、しんどい思いをしていて、社会に不満を持っている。日常生活において、私たちの生きる権利が全うされている場面はとても少ない。しかし、社会への不満をスッキリさせる方法は、果たして自分よりも発言力のない人をたたくことによって得られる全能感にあるのだろうか。たしかに「自分が社会的に抑圧されている」という認識は、多くの人が持っているだろう。怒りたくなる気持ちも、多くの人が感じているだろう。しかし、その怒りの方向が、なぜ自分よりも発言力のない人へ向かうのだろうか?仕事がないのも、時給が安いのも、犯罪が起こるのも、外国人のせいなのだろうか?【ざいとくかい】の主張は、一見するととんでもない意見だが、排外主義が世界中にあることを見ると、このような言説を、人びとは結構すんなり信じてしまう。だから排外主義は怖い。しかし、むしろ、日本の企業が時給を安くするために、そして自分たちの儲けを出すために一人の人間としてではなく「安い労働者」として外国人労働者を雇い入れているのじゃないだろうか。昨年からの一連の不況で真っ先に首を切られ、景気の調整弁として使われたのは外国人労働者だ。怒るべき対象は、大企業や政府なのではないだろうか。外国人が加害者で自分が被害者であると妄想して、勝手に被害者感情を抱き、外国人に逆切れするなど、本当に馬鹿げたことだ。

「誰かをいじめることで仲間と連帯」しても、決して連帯できないと思う。いじめる側になることでいじめられる側から逃げ出しても、いつ自分がいじめられる側になるかわからないし、いつもびくびくしなければならないからだ。いじめることで得られる「不満すっきり」の全能感は、とても脆い。いじめや差別はどこの社会にでもあることで、それをなくすことは簡単ではない。しかし、自分がいじめる側になるのではなく、自分をいじめている大企業や政府に対し怒ることを通してでしか、「連帯」はできないと思う。

少子化時代を迎え、今後数百万人の「外国人」労働者」を迎え入れる必要が指摘されている今日、日本の「外国人」政策は、戦前以来の排外主義的発想を根本から転換するべき時期を迎えている。それは単に政府や自治体行政の問題ではなく、日本人の一人一人に、「外国人」が隣人として平等に生活できる新しい社会の一員として自己を再発明することが求められているのである。」(鵜飼哲、『主権のかなたへ』、岩波書店、2008、16頁)


他者の権利を守れない人に、自分の権利は守れない。私は、私たちの生きる権利を勝ち取るために、外国人いじめを条件としているこの日本社会を変えていきたい。その過程で、私も「自己を再発明」するきっかけを、誰かから与えられるだろうし、日本社会を変えていくとともに「自己を再発明」していきたいと思っている。

なお、【ざいとくかい】のデモに先立ち、お昼ごろに「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」のデモが行われた(反戦生活も賛同団体の一つである)。【ざいとくかい】のデモよりも多い約300名が集まった。そして【ざいとくかい】のデモ中には三条河原町河原町蛸薬師四条河原町で街頭宣伝を行った。それについては、実行委員会のホームページにて写真入りで報告されているので、参照してみてほしい。
http://613action.blog85.fc2.com/

kg

ノムヒョン死去と核実験

韓国の「ハンギョレ新聞」のウェブサイトにノムヒョン前韓国大統領の写真を集めた4分のビデオクリップがある。(リンク先は韓国語、ビデオの再生ボタンで再生)

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/357405.html

また、市民の「偲ぶ集会」ビデオもハンギョレ新聞のウェブサイトより。
http://www.hanitv.com/haninews/sub_index.php?movie_idx=358&depth1_idx=7&info_idx=70&pagesize=10&gotopage=1

下のビデオで歌われている歌「広野から」は民衆歌謡のひとつで、デモの現場で歌われる歌だ。上のビデオでは、弁護士時代の写真から、家族とともに写る写真は、やはり人生最後の5年間の大統領イメージの強さが染み付いている私の目から見ると、とてもインパクトのある写真だ。大学には行けずに高卒で弁護士になり、民主化の過程でも闘った人物である。あるいは議員になって以降も、大統領選挙で市民を味方につけ、どんでん返しの勝利をして以降、金大中の流れを守った。前政権の太陽政策も引き継ぎ、任期の最後には朝鮮民主主義人民共和国へ地上から訪問し、首脳会談も行った。しかし同時に、経済自由化や平澤米軍基地建設の強行など、もうノムヒョンはダメな人なのかと思わされることも多々あったわけだが、李明博以降の信じられないほどに暴力的で逆ギレのような逮捕の情景を見せ付けられると、金大中以降の5年間の韓国大統領を担った人物の姿が、よく見えてくる。


5月25日、朝鮮民主主義人民共和国は核実験を行った。日本や中国、朝鮮半島を含め、すでに東北アジアの高度な軍拡競争へいかに対抗するかは私たちの緊急の課題である。ただ、金正日麻生太郎李明博などがトップをつとめる現在の諸国家と私たちが同一化する必要はない。私たちは「平和のための核保持」というロジックを容認しないためにも、沖縄やグアムの米軍基地が作りかえられようとしていること、あるいは日本以外の地域では国を守るために兵役制度が施行されていること、それらに抵抗したい。「平和のための軍事力」という言葉に絶対に納得せず、丁寧に抵抗することから、東北アジア地域の高度な軍事化と軍拡競争に抵抗していきたい。高度な軍事化と軍拡競争の条件になっている朝鮮戦争は、同時に日本の「経済発展」と「戦後復興」の条件であった。冷戦体制の中、あやふやなお詫びと賠償でアジア各国と植民地支配と戦争責任の解決をしようとしてきた日本政府であるが、その日本がいまだに朝鮮民主主義人民共和国と国交を結んでいないことを問わなければならない。現在に至るまで、日本は決して平和な国であったわけではない。戦後補償は国家に対してだけ行われ、80年代の軍事独裁政権崩壊以降にあふれ出てきた様々な個人の訴えに対して日本政府は被害者が亡くなるのを待つばかりで何も答えない。いわば、軍事化と軍拡競争への抵抗は、朝鮮戦争終結させるためにも、私たちが住む日本においても、繰り広げなくてはならないい。


冒頭に紹介したビデオの最初の導入句は「ばか・・・ノムヒョン」という言葉だ。その何重にも読み取れる「ばか」という意味を、引きずって引きずって考えてみたい。

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